الإله الخالق ورسالة خاتم أنبيائه ورسله محمد ﷺ (باللغة اليابانية) المؤلف محمد السيد محمد
万有の主アッラーとその最後の使徒ムハンマド
(彼に上に平安あれ)からのメッセージ
預言者ムハンマドが最後の使徒であることを証言し、
アッラーの唯一性を証明する科学的根拠と宇宙の奇跡
ムハンマド・アルサイエド著
アラビヤ語→日本語訳
アーヤ・ワーエル 中井清子リーム
アブデルラフマーン・イブラヒーム ヘバ・ウマル
アブドエルラヒム・イブラヒーム ヤスミ―ン・モスタファ
エルバダウィ・ヤスィーン リーム・アハマド
ネイティブ・チェック
須田綾 ヤスミン・ムハンマド
監修
菅野啓太
目次
はじめに 4
この世界に創造主はいるのか? 7
人間のフィトラ([1])にとって神は当然存在するべきものなのか? 19
至高の主アッラー([2])(=神)の存在証明 26
この世に一柱以上の神の存在はあり得るか? 37
可視化は創造主への信仰の条件か?不可視は不在を意味するのか? 44
イスラームにおける創造主の特徴 46
アッラーの絶対的な能力の証明 52
遣わされた預言者達の特徴 62
導きはどこにあるのか? 73
ムハンマドが神から遣わされた真の預言者であると示す諸要素 75
アッラーは自らの言葉をまとめたクルアーンをどのように保護したのか? 87
ムハンマドが真の預言者であったことを証明する特徴 95
ムハンマドが真の預言者であったことのさらなる証拠:その行状と能力 99
科学者による証言―なぜ彼らはイスラームに改宗したのか? 102
ユダヤ教徒はアッラーとモーセだけを信じ、キリスト教徒もイエスだけを信じて、預言者ムハンマドを信じていない 105
ムハンマドは全人類の最後の預言者であり、神の使徒である。そして、ムハンマドの後には預言者も使徒もいないという証拠 109
宗教は国々や人々の間で殺し合いが起こる要因なのか?それは経済の停滞と文化の退廃の原因でもあるのか? 117
人類へのアッラーの恩恵とイスラームにおける人類の義務 122
結び 125
最後に 128
õ õ õ
はじめに
天と地の創造主、影と光を創られたお方アッラー(神)に賞賛あれ。アッラー(神)の他に神はなく、預言者ムハンマドはその使徒であることを証言する。
最後の預言者ムハンマドに平安がありますように。彼の妻、親戚、教友たち、そして、最後の審判の日まで彼によって導かれた者、彼の道を歩んだ者に祝福がありますように。
私にとって神の存在を否定する人々がいることは信じがたいことである。高慢で道理に合わない論に拠って、神が定めた人の道から外れる人たちが沢山いる。かつて旧ソ連や他の共産主義の国々で起こった悲劇のように、また、現在、独裁が行われている国々で起こっている悲劇のように、自国民を拷問し何百万人もの人々を殺害するなど、神の存在を否定し無神論を広める権力者たちや似非信者である権力者たちがその良い例である。
そうした高慢な者たちでさえ、一旦、自らをかえりみれば、どれほど自分が弱い存在か、どれだけこの世界が神からの恵みに溢れているか、自覚するはずである。こういったことは、病気に罹ったときほど明らかになるものである。
それにしても、このような権力者たちの論理を鵜呑みにし、受け入れてしまう者たちがいるのには、もっと驚かされる。彼らはこの現世が必ず終わることや、死後に臨まねばならない最後の厳しい裁きのことを無視するか、或いは知っていたとしても、忘れようとするのだろうか。真実の宗教の様々な証拠や印を見せても、それに背を向け、現世への愛着で心を満たしている。
我々ムスリム(イスラム教徒)にはイスラーム教を知らない人々にイスラームを伝える義務があり、そして神から遣わされた預言者ムハンマドの言葉や彼の美徳、その指導力の特徴について紹介する任務もあるため、この論文では、①万物の創造主アッラーの存在を示す数々の証拠、②アッラーの特徴と性質、アッラーは他の全被造物から無縁であること、③科学的な証明によって、人間の理解を超えるアッラーの限りない力の証明、以上の3つを紹介したい。
以下はイスラーム教徒が信じるべき六つのことである。
1 唯一の存在であるアッラー(神)
2 天使の存在
3 アッラーが下した緒啓典(旧約聖書[タウラー]・新約聖書[インジール]・クルアーン)
4 アッラーが遣わした預言者たちとその教え
5 運命
6 最後の審判の日
次に、千四百年以上前に下されたクルアーンの絶対性とそこに含まれる科学的な事実を明らかにすることによって、預言者ムハンマドが神から遣わされたということを証明し、彼がもたらしたメッセージには神からの導きがあるということを話したい。
そして、アッラーの信徒への恩恵と信徒の義務を紹介し、この論文をイスラーム教徒でない人々へのメッセージで締めくくりたい。我々の善行をアッラーが受け入れてくださいますように。
õ õ õ
この世界に創造主はいるのか?
無神論者に関する概要
十八世紀にヨーロッパで神の存在を否定した本が出版されるまで、多くの人々は神(創造主)の存在を信じていた。神の存在を否定した者は、我欲に囚われ、神の存在を証明する科学的な証拠を目にしても信じようとしなかったのである。それは、正に、
「わが印が真理であることが、かれらに明白になるまで、(遠い)空の彼方において、またかれら自身の中において(示す)。本当にあなたがたの主は、凡てのことの立証者であられる。そのことだけでも十分ではないか。」[聖クルアーン第41章53節]
と、唯一無二のアッラーが仰せられた通りである。
しかし、そのような者はどれだけ神の印や奇跡を見ても、また、全宇宙に偉大な力を有する神の存在を認めても、頑なにその事実を拒否する。これもまた、
「かれらは心の中ではそれを認めながら、不義と高慢さからこれを否認した。それでこれら悪を行う者の最後がどうであったかを見るがいい。」[聖クルアーン第27章14節]
と、アッラーが仰せられた通りである。
本当に偉大な創造主アッラーを信じるならば、彼に帰依し、アッラーが使徒たちに啓示した教えに従い、神の律法が すべてを支配することを認めるべきである。
全ては唯一の創造主アッラーのもとに還る定めである。アッラーは絶対的な力を持った命令する者である。我々はアッラーのしもべとして、神に従う他に選択肢があるだろうか。実際アッラーは、正しく当然のことしか命じていない。
本来アッラーは、命じはするものの命じられることはない。アッラーこそがしもべたちを最後の審判の日に裁く。
「かれは、その行われたことについて、尋問を受けることはない。だが、かれらこそ尋問されるのである。」[聖クルアーン第21章23節]
尽きることのないアッラーの慈悲によって永遠の愉楽に満ちた天国が創造された。現世で、アッラーに従順で完全にアッラーに帰依した人間がその素晴らしい天国という報酬を受けることが出来る。アッラーの慈悲はその憤りをしのぐほど深い。アッラーがお望みになれば、思し召しの者を赦し、思し召しの者を罰される。地獄で味わう拷問はアッラーが創造された正義である。それもアッラーの慈悲なのである。しかし、無神論者はアッラーの存在を否定し、後に滅亡する現世を優先し、身勝手な論理を信じたが、アッラーこそが全てをご存じであられる。
無神論者の訴えとその無効性についての概要
創造主の存在を否定する者は、宗教には真実がなく天地に起こる全ての現象は、いわゆる自然の摂理に基づくものだと主張する。最初は神が全世界を動かしていたが、その後、神はそれを放棄したので、現在の被造物とは無関係であると言う。この意見は「子宮から人間が押し出され、土が人間を飲み込む」と言い出した不信仰者の発言と一致する。
例えば、ドイツの思想家で社会批評家でもある、主に美学と西洋マルクス主義に強い影響を与えたウォルター・ベンヤミン(Walter Benjamin、1892-1940)は、
「この宇宙はまるで時計の如く、そして、その創造主は時計内のギアや機能を調整し、その後の動きを任せられた」
と発言した。
他にも神の存在を初めから否定する者たちがいた。デイヴィッド・ヒューム(David Hume, 1711-1776)は、
「我々は時計が工場で作られている様子を見かけたが、宇宙が造られるのを見なかった。それなのに、どうして創造主がいると信じなければならないのか?」
と疑問を呈した。このような主張は当時の人々の頭と心を支配した。
「本当に盲人となったのは、かれらの視覚ではなく、寧ろ胸の中の心なのである。」〔聖クルアーン第22章46節]
とアッラーが仰せになられた通りである。
そして、彼らは全ての神性と宗教を否定し、自分たちの勝手な空想と見解に従った。彼らは預言者が遣わされたことも、神命と義務を記した諸聖典の存在をも否定した。アッラーによる高邁な教えも信じずに、過去、現在、未来においてガイブ(幽玄界)からもたらされる全ての知らせをも拒否した。続いて、天使の存在といった見えない世界の被造物の存在も拒否したのである。勿論、運命や神の思し召しといった概念、人間の甦りと最後の審判の日、その後の永遠の天国も地獄の存在も信じないという。そういう者は現世しか信じず、個人の意見が個人の神になり、それに支配されていると言っても過言ではない。
「あなたは自分の思惑を、神として(思い込む)者を見たのか。あなたはかれらの守護者になるつもりなのか。」[聖クルアーン第25章43節]
とアッラーが仰せられた通りである。
無神論者たちの考え方、傾向を次に挙げてみたい。
-物理的に目で見えるものしか信じない。
-宇宙は偶発的に発生し、外的な力を要しない。
-物質は偶然にでき、宇宙はそこから分裂した。
-真実を追い求めるならば、宗教にではなく、自然科学に頼るべきだ。
これに対して私の意見は次のようなものである。
1. 自然の摂理は宇宙を解説するものではなく、むしろ宇宙の真実の一つである。全ての宇宙の科学的真実は宇宙の枠組みである。現代科学は真実を解説するのではなく、その真実(現象)を伝えているに過ぎない。例えば、雨が降るのは昔は神の命令だと思われていたが、現在では海の水が蒸発してから雨が降るまでの過程を説明出来るようになった。しかし、このような説明は事実を正確に伝えてはいるが、言ってしまえば自然の摂理を伝えているだけで、科学がその壮大な自然現象の意味を解明してくれる訳ではない。自然の動きを把握したことで、宇宙を解釈出来たと思いこんだらそれは大きな間違いであり、自分を自分で偽っているに他ならない。宇宙の優れた統制力、その完璧なまでの秩序を目にしたら、この果てしなく続く広大無辺の宇宙の裏に、創造主が存在することを感じ取るに違いない。
また、この世はまるで蓋の閉じられた機械のようなものである。その蓋を開けると、複雑怪奇に絡みあい、お互いに繋がっているギアや電気回路が見える。しかし、数々の稼働中の電気回路の動きが見えたというだけで、すぐにその創造主の存在を理解出来るだろうか。その全てが自発的に出来たと思うのは論理的な考え方だろうか。それなら宇宙の完璧に統制のとれた動きを見た後に、どうやって自発的に出来たと思うのだろうか。現在までの科学の進歩の量を1としたら、例えそれが将来100万回に増えたとしても、それでもそれは人間が宇宙の仕組みを発見したという意味に過ぎず、宇宙が自発的に成り立ったという意味ではない。逆に、宇宙の「凄さ」を理解すればするほど、偶然に、自発的に出来たというのは無理な話だと分かるだろう。
2. 宇宙は自然発生的に成り立ち、外的な要素を要しないという意見は説得力が無い。預言者たち、また聖典が伝えた様にこの世界には偉大な神が存在し、その特徴は全被造物の特徴と相異なるものである。
3.物質は永遠に存在するものでもなければ、宇宙もその物質が偶然に分裂して、成り立っているものではない。
感覚は必ずしも人間が求める知識に導くものではない。宗教と自然科学は相反しない。むしろ、宗教は自然科学を理解の為の1つの手段として認めているが、それが全てを理解へ導く学門ではないと指摘している。
視覚によってしか理解し得ない知識もあれば、また理性によってでしか理解し得ない知識もある。同様に預言者、そして聖典によってしか辿り着くことの出来ない知識もある。
背教者と神性を拒否する者たちの誤った哲学
背教者や神性を拒否する者たちは、仮定で物事を推定し、明確な根拠もなしに、論理付けを行う。
全ての物質は分裂するか、他の形に変化する可能性を持っている、と現代科学が証明している。
物理学者や科学者、又は個体物質は消滅すると信じている者たちに、例えば「人間の死」はその一例なのか、と尋ねても、死んでも、自分は他の物質に変わるため、消滅ではないという回答が返ってくるだろう。また、死体が変化した物質もいつか消滅するのではないかと尋ねても、消滅ではなく他の物質に変わるだけだと答えるだろう。このように、消滅する物質は何なのかと聞いてみても、明白な回答は出て来ない。なぜならば、こちらは物質について哲学的に議論しているのであり、実際に存在する物質が何であるのか具体的には知らないのだから。
結論は、その物質に真の原因があるのである。その原因は始まりも終わりもない永遠の存在である、唯一神アッラーでなければ何だと言うのか。
例えば、ある時、ある惑星に住む生き物が地球に降り立ち、地球には言葉を話すことができる人間という生き物がいることを発見したとしよう。調査をし、その結果、人間とは口があり、その中に上顎と下顎、さらに歯というものがある、そして、それらが接触すると、言葉と音が出ると結論付ける時、それは人間の話す能力の説明になったのであろうか。
それと同様に、宇宙の謎を次々と発見したと思っている無神論者が出している非論理的思考も単なる空想に過ぎない。
実験と観察は物事の理解の手段だと彼らは考えているが、それは間違っている。口頭による報告でしか伝わらない事実もある。預言者によって伝わる事実がそれである。
かつて、海には木製の船しか浮かばないと考えられていた頃、ある人が鉄製の船を作ると言うと、皆から嘲笑され相手にされなかった。船は木製でなければ浮かばないと考えられていた大昔に、重い鉄製の塊を海に投げるなどという実験は、考えられないことだった。ところが、技術が進んだ今日では、誰もが彼らが思いこんでいた理論の方が間違っていたということが分かるだろう。つまり私たちが信じている科学的な理論は常に正しいということではなく、ただその時点の最新の研究結果に過ぎないのである。
無神論者の論理についてもそうだが、信じられている科学的な理論はいつも必ずしも当たるとは限らない。
よって、物質が自然発生的に分裂してこのような精巧緻密な世界が出来あがったという主張は少々出来すぎである。偶然に、このような精巧な世界が出来るはずがない。この裏には精密な設計図、またそれを描いた設計者(つまりここでは、万有の創造主)が存在したに違いない。
創造主である神の存在は人間の心の中に組み込まれており、昔からその存在を否定する人間は少数だった。神からの啓示は、神こそが創造主であり、全ての恵みを与え、命を与え、そして命をとる者である、ということを人々が認識出来るように下された。そして、その啓示は、創造もせず、恵みも与えず、命も与えず、そして命もとらず、創造主である神の性質を一切持たない物への崇拝をやめさせ、唯一の神の崇拝へ導いた。
前に述べた問いは以下のように言い換えられる。
永遠(それより前の物がない原初的なもの、それより後のものがない最終的なもの)の存在は創造主なのか、それとも物質なのか?。
「熱力学第二法則」という法則がある。それは物質が永遠であることはあり得ないこと、即ち、宇宙が永遠の存在であることは不可能だと証明した法則である。
熱力学第二法則とは、熱力は、熱力的存在が常に熱力の無い存在の方向へ移動し、その逆の方向へ移動することは不可能であることを証明するものである。
つまり、熱力が無熱力または低い熱力のレベルからより高い熱力へ移動することは不可能で、常に高い熱力のレベルから低い熱力へ移動するものである。
従って、或る時、全ての存在の熱力が同等になるわけである。その時、仕事や生活に役立つ熱力が全て無くなるのである。その結果、全ての科学的、物理的なプロセスが終わり、生命は自然に終わってしまう。
この科学的発見によって、宇宙は永遠の存在ではないことが事実として証明されたわけである。
このような科学的な研究により、この宇宙には始まりがあり、創造主である神がいることが証明された。なぜなら、始まりのあるものは自動的に始まるということは有り得ないことであり、最初の原動力が必要とされるからである。それがつまり創造主である神である。
物事が全て神によって創造されたという事実と、その創造物の科学的な説明は矛盾しないことを考慮しなければならない。
預言者ムハンマドは、
「我々が治療に使う薬、或いは唱える呪文は神が定めた運命を変えるでしょうか」
と聞かれた際、
「それこそ神の運命である」
と答えた。
神の創造物の様子を観察すると、神は常に何らかの意図をもって物事を創造することが分かる。その意図は大体において決まっている。
神の創造には意図、目的があり、それらを根拠に、自らの役割を果たされる。
この章の最後に、創造主である神の存在を否定する共産主義者とイスラム教徒(ムスリム)の討論を要約して紹介したい。この討論はロシアのソビエト連邦時代、レーニンのクーデターの後に行われ、1万人以上のムスリムやキリスト教徒、また共産主義者などが出席した。
討論
共産主義者の代表者が立ち上がり大きな声で言った。
「人々は神が存在すると言っています。その神が宇宙を創造し、宇宙を守っていると言っています。そんなものは単なる迷信です。クルアーンや聖書はその神を偉大な立派な存在として描写しています。現在我々は顕微鏡と望遠鏡で最も小さく、遠いものでも見ることが可能となりました。それにも関わらず、我々は神をいくら探しても見つけることが出来ませんでした。実際に見たという人もいません。それなのに、どうして神が存在するなどと言えましょうか。全ての万物は自然に発生したのです。」
アブー・アブド・アル・カリーム(ムスリムの討論者)は立ち上がり、神に感謝し預言者ムハンマドに平安があるようにと、祈ってから静かに話し始めた。
「彼は実際に見たことがないと言って、神の存在を否定しました。私は尋ねたい。肉体の中には精神があり、脳の中には心があるのではないですか。おそらくそれを否定する人はいないでしょう。それならば、その精神や心を見たことがある人はいるのでしょうか。もしそうであればそれを描いてみてくれませんか。」
(このようにして、彼は目で見えなくても存在し得るものがあることを認めた。)
「目で見えなくてもその効果や現象に目を向ければ物事の存在を認められます。そうであるならば、それら全てを創造した神の存在も認められるのではないでしょうか。
自分の魂さえ見ることができないのだから、魂に存在するように命令した万物の神をどうやって見ることができるのでしょうか。」
「そこで不信者は当惑してしまった。アッラーは不義を行う民をお導きになられない。」[聖クルアーン第2章258節]
ムスリムの出席者たちは神の名を唱え拍手したが、神の存在を否定した者たちは黙ったままだった。
この討論の結果、共産主義者たちはアブー・アブド・アル・カリームの家を襲撃し、金目のある物全てを奪い、彼に銃殺刑を言い渡した。
õ õ õ
人間のフィトラ([3])にとって神は当然存在するべきものなのか?
神(アッラー)は自らを信じさせるように人間を創造した。人間は生まれつき神を信じる能力を持っている。人間が神を信じる能力を持っていると言うことは説明不要なほど明確な事実であり、預言者ムハンマドはそれについてハディースの中でこう述べられている([4])。
皆フィトラを持って生まれてくる。
そのため、人間は突然命にかかわるような場面に遭遇したら、「おお神様」などと言い出す。それは人間には神の存在を信じる性質があるという証明ではないだろうか。
神は、人間、動物、そして無機物に至るまで全ての万物の創造主であり、世の中の出来事や運命を司る存在でもある。
我々は、物事が創造されたという事実と、その物事の創造を引き起こした原因の存在に矛盾はないということ、神は物事の存在が可能になるきっかけをも創造されたことを認めなければならない。
人間のフィトラにとって、神は当然存在するべきものである。ということを、下記の例を用いて証明してみたい。人間はフィトラを持っているからこそ神の存在を認めることが出来るのである。
1-あるベドウィンの男が神の存在の証拠について聞かれた。彼は次のように答えた。
「足跡が歩行の証拠となり、排泄物が駱駝の存在の証拠となる。同様に、高い空、広い大地、そして波のある海の存在は、それを創造した神の存在の証拠となるのではないでしょうか。」
そのベドウィンの男性の考察と洞察に基づいた言葉は他のどんな比喩の言葉よりも説得力がある。
人間には二種類ある。
(1)正しいフィトラを持つ者:神の存在を認め、神がフィトラと共に私達人間を創造されたことを信じる者。従って神の大空や大地にある印を見る時、それが神の存在の証拠であることが分かる。神の存在の認証と信仰のほうが神の啓示より先であり、神の啓示や印は信仰を再確認、そして強めはするものの、最初から存在するものではない。
(2)フィトラがある程度まで崩れた者:神の存在を信じなかったが、神の啓示や印を考察した結果、神の存在の証拠であると分かり、その印を通じて神の存在を信じる。
「かれらは無から創られたと思うのか。それともかれら自身が創造者なのか。それともかれらが、天と地を創造したのか。」[聖クルアーン第52章35-36節]
人間の存在は、人間を創造した神の存在の印である。
クルアーンは創造主である神の存在を否定する者を、天や地における印によって、万物の創造を考察するように導いた。クルアーンは神の存在を否定する者に対し、以下のように言っている。
「あなたと、あなたの周りの世界を創造したのが神でなければ、あなたは無から創られたのか。つまりあなたは単なる無から来たのか。
理性のある者は誰もそれが無理だと思うに相違ない。
では、あなた自身が自分を創ったのか。
いや、それこそさらに無理なことであろう。
では、あなたが天と地を創ったのか。
いや、そのように言うと自分が単なる頑固者となるだけである。」
上記の事柄は人間が理性によって把握出来る事柄である。よって、クルアーンではそのような疑問形による啓示でその疑問に対する答えを導いた。
1-マーリク・ブン・アナス (714年-796年)([5])
ラーズィはマーリクについて次のように語った。「マーリクは神が存在する証拠について問われ、言語や発声の違いに喩えた。つまり、国や民族によって異なる世界各地の数々の言語、発声の違いは、神により創造され、それは神が存在することの証明だと説明した。」
2-アブー・ハニーファ(c699年-767年)
ある放蕩者たちが神の存在について、アブー・ハニーファに尋ねた。アブー・ハニーファは答えた。
「大海に航海中の船があり、中には多くの荷を積んでいる。しかし、その船を運転する船頭もおらず、番人もいない。それにも拘わらず、特に問題もなく航海を続けている。高い波を超え、好きな航路を選択して。」
放蕩者たち曰く、「それは理性を備えたもの(人間)のことではないじゃありませんか」
アブー・ハニーファは続けて言った。
「この世の全て、宇宙も海中もその中の極めて精密に管理されている被造物もみんな創造主なしで自然に発生したというのか?」
その瞬間、彼を問い詰めていた人々の顔色が変わり、信仰心を抱いた。知恵のある者は全宇宙に創造主が存在することを否定しない。否定するのは頑なな者たちだけだ。
3-シャーフィイ(767年-820年)
シャーフィイはある時、創造主について尋ねられた。彼はこう答えて言った。
「桑の葉はそれ自体は同じ味をしているにも関わらず、蚕がそれを食べると絹を出し、家畜が食べると便を出し、鹿が食べるとムスク(ジャコウジカの分泌物による香水)を出す。」
このようにシャーフィイ師は、神による1つの印について言及し、神の存在を証明してみせた。
4-アハマド・イブン・ハンバル([6])(780年-855年)
アハマド・イブン・ハンバルは神の存在について問われた際、次のように回答した。
「ある堅固な壁があって、それには扉がなく、穴が一つも開いていない。表は銀のようなもので中身は純金のようなものでできている。その壁から全聴、全視出来る綺麗な音を出す被造物が出てくるのである。」
アハマド・イブン・ハンバルは卵から雛が出てくることをこう喩え、そのような優れた仕組みの創造は、神の存在証明に他ならない、としたのである。
この章の最後に至高のアッラーが仰せられた諸節を紹介したい。
「あなたがたは天と地を創造された方、アッラーに就いて疑いがあるのか」[聖クルアーン第14章10節]
「それともあなたがたはかれが創られたものの中から(天使を)娘として選び、あなたがたは男児だけ授かるとでも言うのか。(いやそうではない。)」[聖クルアーン第43章16節]
「かれが創造されたものを、知らないであろうか。かれは、深奥を理解し通暁なされる。」[聖クルアーン第67章14節]
これらの節を無神論者たちに、理論的に伝えるなら、次のようになるであろう。
無神論者は「無」から「有」になったことをよく知っているはずである。
それには2つの可能性が考えられる。無からできたのか、それとも何らかの力によって創られたのか。
無から出来るものはないので、その可能性はないであろう。
では、創るものが存在するのである。
それはあなた自身か、あなた以外のものであろう。
しかし、あなたはあなた自身を創ることはできない。
では、あなた以外のものがあなたを創ったのである。
そのあなた以外のものは、あなたと同じように創ってくれるものを必要とするものか、それとも、創ってくれるものを必要としないものか、のどちらかである。
しかし、それはあなたと対等なものではない。さもなければ、あなたと同様に、創ってくれるものを必要とする。
では、あなたを創ったのは何物をも必要としない存在でなければならない。
それらを作る力を持っているのは間違いなく、至高の主アッラーである。
もし、公正に物事を判断出来る者ならば、この宇宙に偉大な創造主が存在することを認めるだろう。その創造主は何者をも必要とせず、全てを無から創造したのである。
õ õ õ
至高の主アッラーの存在証明
現在までに発見された科学的な証拠、また法的、感情的、性質的、理論的な証拠は全て神(アッラー)の存在を証明した。理性的な人間であれば否定する理由はないはずである。神の存在を否定する者は、ただ高慢で頑ななだけである。
次のような証拠も取り上げよう。
1 理論的な証拠
天地と星、山々、河川、樹木、人間、動物…等々、この世の存在自体、被造物によって創造されたと言うには無理があるであろう。
これら全ての被造物は、どこから発生したのだろうか?
1-偶然発生したのか。
2-創造主なしで、創造されたのか。
3-宇宙は自発的にできたのか。
上記の3つは全て不可能である。まだ記述していない4番目の可能性にこそ真理がある。
全ての被造物が偶然に出来たことは理性が否定する。こんなにも美しく、優れている全宇宙のシステムが偶然に発生するなど、論外である。もし偶然であれば、ぶつかりあう、または崩れる等、何か起きても良さそうなものだが、未だにそういったことは起こっていない。
4番目の可能性は、この全世界は何か偉大な力によって創造されたということである。
「かれらは無から創られたのではないか。それともかれら自身が創造者なのか。
それともかれらが、天と地を創造したのか。いや、かれらにはしっかりした信仰がないのである。」[聖クルアーン第52章35.36節]
少し理性的に考えてみれば、この世には創造主がいることに辿り着くはずである。
2 本能による証明
人間は本能的に神がいることを信じている。それ故に、突然災害などが起きたら、「神様、助けてください」などと言い出すのである。
クルアーンでもそのような意味合いの事柄が明記されている。
「苦難のさいに祈る時、誰がそれに答えて災難を除き、あなたがたを地上の後継者とするのか。」[聖クルアーン第27章62節]
すなわち、人間は本質的に信仰を持つ性質、傾向があり、絶対的な何かが存在することを心の奥底で信じているのである。
3 感覚による証明
上述した通り、人間は本能的に神の存在を認める。そして彼に対して祈り、すがり、その存在、その英知、そして全てを超越したその存在を信仰するのである。
神は、預言者たちだけでなく、善人、信仰者の祈りも受け入れられ、彼らの願望を叶えてくれる。例えば、マーリク・ブン・アナスの伝承に次のような話がある。
預言者ムハンマドが金曜礼拝の説教をしていると、ある男が近づいてきて言った。「預言者様、景気が悪く、生活に困っています。どうかアッラーに救ってくださるよう、私の為に祈って下さい。」
預言者ムハンマドは両手を大空に掲げアッラーに呼びかけた。
「アッラーよ、どうか我々を(雨で)助けてください、アッラーよ、私たちに恵みの雨を降らせて下さい」。
するとその瞬間、雲一つない青天の澄んでいた空から雨が降り始めた。預言者ムハンマドが説教壇から降りると、髭は雨で濡れていたほどであった。そのまま一週間雨が降り続いた為、もう一人の男が預言者ムハンマドのもとに行き、
「建物が壊れて、財産がなくなってしまった。どうかアッラーに雨を止ませてくださるよう、お祈りして下さい。」
と嘆願した。預言者は祈って、大空に向かって手を掲げた。
「アッラーよ、どうか我々の真上ではなく、我々の周囲に雨を降らして下さい。」
すると、預言者が手で指した場所は全て晴れて、人々は外に出ることができた。
上記のハディースは、アッラーが人々のお祈りを受け入れてくれることを証明している。そして、ここで指摘したいのは、アッラーは預言者ムハンマドのお祈りを受け入れることによって、多くの人の前でムハンマドが真の預言者であることを証明された、ということである。更に、このハディースには預言者の慈悲と知恵が示されている。まず、最初の人にお願いされたら、その人の気持ちをまず受け止めて、アッラーに対して祈り、次に一週間も雨に降られて損をしたと陳情されたら、完全に雨が止むことを祈ったのではなく、アッラーに、どうか自分たちの真上ではなく、害が加えられない程度に周囲に雨を降らせてくれるようにと、お祈りを捧げられた。
4 預言者たちが創造主アッラーの唯一性、その英知、慈悲、威力について人々に教えを説き、また比類なき奇跡を起こしたことが、正に神に遣わされた証拠でもあった。
5 科学的な根拠
かつて、唯物論者や無神論者たちは、太陽のような巨大な星を、不変で永遠の存在だと思い込んでいた。また、ある哲学者は、天体は創造されておらず、永遠なものだと主張していた。
ところが、現代科学によって、太陽は遠い将来ではあるが、自らの放射でいつか無くなってしまう可能性があることが証明された。つまり、天体や銀河にも始まりと終わりがあるのである。
創造主の存在を否定して、原子こそは永遠のものだと主張した哲学者もいたが、それも結局は正しくなかった。物理学により原子そのものが、より小さな電子と陽子と中性子からできていることが証明されたからである。最近、物理学者によって発見された最少のものは、いわゆる“クォーク”である。ならば、クォークこそは永遠の物質だと主張する物が出てくるかもしれないが、その主張には何の根拠もない。
1-近代科学によって後に、クォークよりもっと小さなものが発見されるかもしれない。
2-クォークが永遠の物質であるならば、独立していてクォークとしてだけで存在する。 しかし、クォークはエネルギーに変わり、エネルギーも物質に変わることが可能であると既に証明されている。
6 天文学的根拠
近年、現代科学によって、天文学分野でもう1つ重要なことが発見された。宇宙は常にものすごいスピードで拡張しているというのである。天文学者はこの不思議な現象を以下の二つの説で説明しようとした。
A‐連続創造説
B‐ビッグバン説
上記の二つの説により、恒久的宇宙の広がりにも拘らず、宇宙の密度が常に一定であることが発見された。
A‐連続創造説
遠く離れた物質同士が似た性質を持つゆえに、宇宙は始まりも終わりもなく固定的で永遠のものだと主張された。
しかし、この仮説を無効にする疑問が出てきた。そもそもその物質はどこから来たのか、ということである。
ある人々は、その物質は無から出来たと解説したのだが、そのような仮説を信じた人は皆無に近かった。無からできる物があるはずがない。そこで、天文学者は次の理論に辿り着いた。
B‐ビッグバン理論
この理論では、宇宙の物質が日に日に離れていくのならば、過去にはおそらく宇宙の構成物質同士も近かったのだろう、という仮説から始まった。遠方の銀河が遠ざかっているという観測事実を、一般相対性理論を適用して解釈すれば、宇宙が膨張しているという結論が得られる。宇宙膨張論を以て過去の状態を推測すると、つまり、銀河の動きが現在の動きの反対であったと想像すると、宇宙の初期には全ての物質が一カ所に集まる高温度・高密度な状態であったことになる。
また物理学者たちが説明するところによると、その物体は近づけば、近づくほど、重力が増し、よりお互いがくっつくことになる。それによって、銀河の間にあった空間がなくなり、圧力が高まるのだという。その物質は原子ほどの大きさ、もしくは原子よりも小さいものだったと考えられる。そして、その大きなエネルギーと高い圧力を持っていた物質は爆発して、その分子が拡散した後に、温度が徐々に冷えることによって、宇宙ができたのだという。
しかし、ここで考えられる重要な問題は、宇宙の基礎となった物質がそもそもどこからできたのか。無からできたと推測するのか。それはあり得ない。無からできる物は一つもないはずである。だとするならば、創造主が存在するに違いない。
重要なポイント
クルアーンにはビックバン説に相当する現象が記されている。仮説として紹介したというよりも、確かに存在する一つの現象として紹介している。
「信仰しない者たちは分らないのか。天と地は、一緒に合わさっていたが、われはそれを分けた。そして水から一切の生きものを創ったのである。かれらはそれでも信仰しないのか。」[聖クルアーン第21章30節]
つまり初め、天地は分かれておらず、一つの塊だったが、アッラーがそれを分けたというのである。
この節は、宇宙の存在を考えるきっかけを与えており、この宇宙の創造主を知る為に下されたものである。この節は神の存在の印であり、クルアーンが預言者に啓示された証拠でもある。
7 保護の証拠
宇宙の美を鑑賞する者は、それがとても偶然とは思えない程の、完璧な規則、統制をもって存在していること、そしてこの宇宙の全ての被造物は無計画に創造されたのではない、ということを理解するのである。各々の被造物は、一定の法則の中、驚くべき緻密さでコントロールされている。この全宇宙の被造物間の調和を注視すると、至高の神に何らかの形で保護されていることを感じるのである。
神(アッラー)による被造物への保護という点について、いくつか見てみよう。
1‐我々が生きているこの地球は全宇宙の広大さから見ると、たった1原子に過ぎないのである。もしこの地球が月と同じ大きさだったら、現在の地球の重力の6分の1だったはずである。しかし、その場合、地球は引力が弱い月のように水も空気もないことになる。さらに夜間は極端に冷え、存在する全ての被造物が凍えてしまうことになる。そして、午前中は極端に暑く、存在する全ての被造物は干上がってしまうことになる。
逆にもしこの地球の直径が現在の倍あったなら、重力も倍になり、空気の層が縮むようになり、日常生活にたいへんな悪影響を与えることになる。地球が膨張すれば膨張するほど、空気の層が縮み、被造物が生きられなくなる。
2‐地球は24時間で1回転する。1時間あたりの速度は1千マイル(約1,609km/h)である。もしその速度が200マイル(約322km/h)を下回ったら、朝と夜の時間が何十倍にもなり、日中は太陽により多くの生き物が熱され、夜間の冷えで多くの生き物が破滅することになる。
3-地殻がもう10フィート(304.8cm)厚ければ、地殻が酸素を吸収するため、酸素がなくなって生き物が生存することはできなくなる。
4-海洋や海域がもう数フィート深ければ、酸素と二酸化炭素が吸収され、地上では生存できなくなる。
5-もし大気がより薄ければ、隕石が貫き、地球に落ちて燃えていたであろう。
6-もし太陽と地球のあいだの距離が現在の半分であったとすれば、それは、例えるなら紙が即燃えてしまうくらいの温度になる距離である。一方で、もし太陽と地球の距離が現在の倍であったなら、地上は冷え込み、地上での生存が不可能となる。
他にも、きめ細かで不思議なバランスを保っている多くの宇宙の現象を挙げることができるが、全てはアッラーにより保護されていることを証明している。アッラーはその英知をもってあらゆるものを、正確に測り創造したということを表している。
まさにアッラーが仰せられた通りである。
「凡てのことは、かれ(アッラー)の御許で測られている。」[聖クルアーン第13章8節]
「本当にわれは凡ての事物を、きちんと計って創造した。」[聖クルアーン第54章49節]
8 道徳的な証明
道徳観、例えば、正直、誠実、正義感などは人間にとって必要不可欠な価値観であり、その価値観が増せば増すほど、社会は強化され、文明、技術、経済力が盛んになるはずである。
しかし、神性や宗教が存在していなければ、道徳心が無くなってしまう。例えば、正直であっても、それに対する報いがなく、道徳を守ってもそれに見合った報酬が与えられなければ、そして、嘘をつくことによって、逆に何かの利益が得られるとすれば、神を信じない者は、平気で嘘をつくことになるであろう。
道徳を守っても、現世で利益が得られないのであれば、
「なぜ正義や道徳を守らねばならないのか?この世の楽しみを犠牲にし、努力したところで何の利益もない。」
と思うのは当然だろう。
公正な神に、いつか出会うと信じなければ、この世から善がなくなり、例えば爆弾を仕掛けて無数の罪のない人々を殺害しても、国際社会が何の行動も起こさなければ、決して世界から注目されることはなく、結果として善悪の基準が分からなってしまう。
信仰がある者は、嘘をつくことは自分の理性に矛盾していると考え、神の為にさらに人格を磨こうとする。人間は元々美徳という属性が備わっている為、善行をすると幸せを感じ、悪行を行うと不幸な気持ちになるのである。この本能を作り上げたのもこの世の創造主アッラーである。アッラーは正義、そして各人の行いを裁くため、この世で我々は神の存在を認識して、周りの人間の目ではなく、アッラーの目を気にするのである。
人間の本能に道徳心をおいたのは、英知ある創造主に違いない。
まとめ
もしこの全世界の創造が自発的に起こったとすれば、この世界自体が創造主の特徴を持つと推測される。言い換えるなら、この世界自体が神であると信じざるを得なくなる。しかし、その場合、神は単なる目に見える物質的な存在になってしまう。
しかし、実際にはそうではない。この物理的な世界には目に見えない偉大な力を持つ創造主が存在していると考えた方が理論的である。
õ õ õ
この世に一柱以上の神の存在はあり得るか?
これまで、多くの証明を挙げながら神(アッラー)の存在を説明してきた。神こそ全ての被造物より至高の存在であり、完全な存在であることも明らかにした。健全な本能(フィトラ)に逆らって複数の神を信じた人間についても説明したように、それは彼らの性癖に従った異端である。健全な理性はそれを否定する。至高のアッラーが仰せられた通り、
「かれらは(何の)知識もなく、臆測に従うだけである。だが真理に対しては、臆測など何も役立つ訳はない。」[聖クルアーン第53章28節]
1‐本能による証明
人は困難に直面すると、往々にして「神様、どうか助けてください!」など反射的に言い出すものであるが、そのような場合、川の神、山の神、穀物の神、と言わずに、神様、と呼びかけるのが一般的だろう。ということは、本来、人間の本能は唯一創造主の存在を信じているのである。
預言者ムハンマドが遣わされる前、多くの人は多神教を信仰していた。偶像や石に祈り、地上の多くの象徴を神としていた。しかし、彼らに「神は何人いるのか?」と尋ねると、「天にいるのが唯一の神だ!」などと答えていた。やはり、人間は本能的に唯一の神を信じる傾向があるのである。
2‐預言者らの言う唯一神への招待
アッラーは人間を正しい道に導く為に多くの預言者を遣わした。そして、全世界、全宇宙の創造主アッラー、自存し、並ぶ者もなく、比べ得る何ものもない存在。人々がそのような創造主に気付くことができるように預言者たちを遣わしたのである。
本来アッラーは、人間を信仰心と共に創造したが、後にそのことを忘れた者たちに、信仰心を思い起こさせるよう預言者たちを送ったのである。それはアッラーの慈悲で、最後の審判の日に不信心者たちに言い訳をさせない為の、アッラーの正義でもある。
それ故に、アッラーは預言者らに奇跡を起こす力を与えた。奇跡や超自然的なことを他人に見せることによって、アッラーから遣わされた預言者であることを人々に証明したのである。
3-理性による証明
a.不可能という証明
宇宙の完璧なる創造とその規則の精密さを本当に理解した時、宇宙の創造主が唯一の存在で、その助けになるものや争い相手すらも存在しないことが明らかになるはずである。
つまり、感覚的に宇宙の創造が完璧で混乱もないことを理解すれば、自ずと宇宙の創造主は複数いないことが理解出来るはずである。
もし二柱の創造主がいるとしたら、
二柱の神の思惑が一致しない場合:例えば、一方の創造主が、在る物を動かそうとする時、もう一方が反対しているなら、次のような結果となる。
二柱の神が、それぞれにやろうとしていることを実施すると、矛盾が生じるので、双方の考えを同時に実施するということは不可能である。
二柱の神が、双方とも行動に移さない場合:これでは勿論、実現不可能である。
片方の創造主の希望通りになる場合:この場合には、一方が真の神で、他方が無力で神としての能力がないことになってしまう。宇宙の秩序の完璧さや精密さから、それをコントロールする唯一無二アッラーの存在が明らかになる。上記に挙げたような内容が、クルアーンの章にも記されている。
「もし、その(天地の)間にアッラー以外の神々があったならば、それらはきっと混乱したであろう。」[聖クルアーン第21章22節]
要するに、神が唯一無二の存在であることを認識し、アッラーだけを崇拝すること、そしてアッラーが唯一の創造主であると認識することである。
もう1つの証拠は、多神教徒たちさえも、一神教のことを認識していたことである。
つまり、アッラーが唯一無二の存在である前に、アッラーは唯一の創造主であることを理解し、信じる必要がある。
このクルアーンの章が啓示された目的は、アッラーの他に、その他の神を崇拝しないためである。
上記に述べたことを、イマーム・イブン・タイミーヤは次のように説明した。
b.アッラーの存在が様々な証拠によって証明された後、またアッラーがこの宇宙の万物の唯一の創造主ということが証明された後には、健全な理性に従ってこの唯一で並ぶものもない創造主以外の偶像や、石や、嘘や、幻想などを崇拝しないこと。
健全な精神の持ち主であれば本能的に創造主である唯一の神(アッラー)に従属することしか受け入れられない。崇拝するべき創造主は至高のアッラーである。創造主が複数いるとすれば、人間は被造物として、その全ての神々に従わなければならないし、全員の命令に服従しなければならないことになる。
偽りの神々の命令は間違っていて、矛盾に満ちている命令に違いない。
そこで、哀れな人間は、創造物として、誰の命令に従うべきか分からなくなり、正しい道から逸れてしまう。
もし被造物としての人間が、一人の神のみに従うとすれば、他の神々の怒りにより罰をうけてしまうはずである。
その場合、この人間は罰をうけるのか、それとも報酬を受けとるのか。もしくはその両方なのであろうか?
このようなことを、健全な本能は、受け入れられない。至高の神アッラーが我々の為に創造した健全な精神は、ただ一つの真実しか受け入れられないのである。
健全な本能や健全な精神の持ち主は、この宇宙の創造主は唯一で、自存し、並ぶものもないということしか受け入れられない。
「アッラーは一つの比喩を提示なされる。多くの主人がいて互いに争う者と、只一人の主人に忠実に仕えている者とこの二人は比べてみて同じであろうか。アッラーに讃えあれ。だが、かれらの多くは分らないのである。」[聖クルアーン第39章29節]
要するに、思惑や命令が異なったり、重なり合っている複数の神に従っている人間は、唯一の神に従っている人間と同じではない。次のクルアーンの章は、至高の神アッラーと一緒に他の神々も崇拝している多神教徒たちと、至高のアッラーだけを崇拝している信仰者たちの違いについて述べている。
至高のアッラーは、次のように二つの様子に言及した。
「もし、その(天地の)間にアッラー以外の神々があったならば、それらはきっと混乱したであろう。玉座の主、かれらが唱えるものの上に(高くまします)アッラーを讃えなさい。」[聖クルアーン第21章22節]
つまり、アッラー以外に他の神々がいたとすれば、上に述べたように、思惑や命令が一致しない為、天地も混乱してしまう。
前述のクルアーンの章は、多神教徒の様子から、彼らが二柱の神だけではなく、多くの神々を信仰していたことを表している。
結論
本能的にも精神的にも宇宙に二柱以上の神がいることは不可能である。
この宇宙や天地にある全てのものの創造主は、至高の神アッラーだけであって、他の創造主や、またそれに並ぶものはいない。
「アッラーは子をもうけられない。またかれに並ぶような神もいない。もしそうであったら、それぞれの神は自分の創ったもので分裂し、お互いに抜きん出ようとして競い合う。」 [聖クルアーン第23章91節]
前述したクルアーンの節は至高のアッラーの唯一性を否定する人々に対しての言葉である。聖クルアーンでは、アッラーが子をもうけることを否定しており、もし子をもうけるのだとすれば、人間は、アッラーに近づく為に、その子を崇拝し始めたであろう。アッラーと人間との間に調停者を置き、神格化することは禁止されている、
前述のクルアーンの章は、至高の神アッラーに並ぶ、崇拝の対象となる別の神の存在も否定している。アッラーの他に崇拝する価値のある神がいたとすれば、以下の二つのことが起こりうる可能性があった。
第一の可能性
それぞれの神々が力を持っていると人間たちが考えることに対して、アッラーは次の章を下された。
「それぞれの神は自分の創ったもので分裂しお互いに抜き出ようとして競い合う。」
[聖クルアーン第23章91節]
このようなことが発生しなかったのは、創造主が唯一の存在であることの証拠である。
第二の可能性
もし一方の神に力があり、他方の神には力がなかったとしたら、至高のアッラーが仰せられた「お互いに抜き出ようとして競い合う。」ようなことが起こったはずだ。それが起こっていないのは力のある神と力のない神などというものがないことの証拠である。つまり全知全能の唯一神、アッラーしかいないのである。
力のある神と力のない神がいたとすれば、力のある神だけ崇拝されたであろうが、至高のアッラーの他に神々がいる可能性はない。至高の神アッラーは唯一でそれに並ぶものもいない。
「御産みなさらないし、御産れになられたのではない。」「聖クルアーン第112章3節」
可視化は創造主への信仰の条件か?
不可視は不在を意味するのか?
A-牛乳とバター
バターが牛乳から作られることはよく知られているが、牛の乳から牛乳を搾り出す時にバターが見えるだろうか。さらに、絞りたての牛乳からすぐにバターを作ることが出来るだろうか。それも出来ないであろう。牛乳からバターを作るには、加工しなくてはならず、すぐにバターが出来るという訳ではない。
目に見える物理的な証拠が何かあれば受け入れることが出来るが、目に見える物理的な証拠がない場合、絶対に受け入れないというのは理性的な人間とは言えないであろう。
例えば、重力の法則は人間の観測に基づいたものにも拘らず、人々に信じられている。重力そのものは見ることも触れることも出来ないが、存在していることを疑う人はいない。
そうであるならば、唯一の神が目に見えないから信じない、というのは矛盾しているのではないだろうか。ここで言いたいのは、物理的な証拠だけではなく、人間は観測に基づいた 様々な証拠を観察することによって、その存在を確信することもある、ということである。目の前に見える牛乳からバターを取り出すことが出来るのは分かっていても、バターがその場で見えないのなら、それが存在しないということになるだろうか?
B-知能
人間には知能があって理性的に物事を考える力があるが、自分の心を見たことがあるだろうか。心や理性があることは全人類が認識していることだが、誰もそのもの自体を見たことはないのである。
C-魂
人間が生きるためにアッラーは我々に魂を吹き込んだが、それを見たことがある人はいるだろうか。魂は見えないにもかかわらず、魂があることを皆が当然信じている。様々な証拠があったうえで、魂の存在を信じるのであれば、全世界全宇宙の創造主の存在も推論されるべきではないだろうか。神は多くの印を我々に送って下さったし、そのどれもが神の存在を示している。よって、創造主そのものは目で見えなくても、その創造物を見ることによって、創造主の存在に辿り着くはずである。
õ õ õ
イスラームにおける創造主の特徴
これまで、神(アッラー)の唯一性について考察してきた。次に、その唯一性の信仰についてもう一度見ていく。「タウヒード・アッルブービーヤ(即ち唯一神の主性:この世の創造や管理、所有や支配などに関する権威。)」と「タウヒード・アルウルーヒッヤ(唯一神の神性:真に崇拝されるべき権威。)」という言葉がある。「タウヒード・アッルブービーヤ」とは、至高の神の本質とその美名と属性(神の善性を表すその形容)におけるアッラーの唯一性を認めるという意味である。神のしもべである人間はアッラーこそがこの世の唯一の創造主、所有者、支配者であり、本質と行為において完全な存在であることを確信すべきである。即ち、アッラーは唯一無比、全知全能、この世の主権を握っている存在であるということを信じることである。
そのタウヒード・アッルブービーヤを実践するなら、アッラー以外の神を崇める、お供え物を捧げるなどの行為をすることはない。アッラー以外に崇めるに値する神はいないことを認めるのである。つまり、アッラーのみへの崇拝行為を遵守するということを受け入れる心になれば、タウヒード・アッルウルーヒッヤのステップを踏んだことになる。
人間が本能的に神を信じていることは既に明らかにした。人間も神の被造物ではあるが、他の被造物と違うのは理性を持っていることである。理性を用いて人格を磨き、最も良い品位や特性に達そうとするのは人間として自然の性質である。ある者は威厳のある人の特徴や美徳やその財産などを褒め、素晴らしいと評価するであろう。また、優れている建築の美しさ、その高さや装飾の細かさなどを描写したり、想像したりしてその素晴らしさを褒めるであろう。それを創造主に当てはめて考えると、アッラーの美名とその気高い属性はどうであろう。全世界を創造した唯一神から恵まれた知能によって、人間はアッラーを尊敬し、彼こそを高潔な存在として扱うべきではないのだろうか。
預言者ムハンマドは、アッラーに似ているものはおらず、彼はあらゆる短所や欠陥から無縁であり、美名と気高い属性を持っていると説いた。
「彼に比べられるものは何もない。彼は全聴にして凡てを見透かされる方である。」[聖クルアーン第42章11節]
アッラーは始源者であり、永久に続く存在である。生むこともなければ、生まれたこともなく、配偶者もおらず、子供もいない唯一無二の創造主である。彼に並ぶものは一つもないため、彼だけに全てを委ねて帰依するのである。
「言え、かれはアッラー、唯一なる御方であられる。 アッラーは、自存され、 御産みなさらないし、御産れになられたのではない、かれに比べ得る、何ものもない。」
[聖クルアーン第112章1~4節]
1‐創造性
無だったものはアッラーによって創造され、その運命も定まっているのである。
2‐永久性
アッラーはどんな被造物よりも先に存在した始原者であり、全ての被造物がなくなってからもアッラーだけは残る。アッラーは独立しており、必要とする被造物は一つもない。
では、アッラーが永久的な存在であれば、例えば永遠の天国とどう違うのか。
その回答は次の通りである。アッラーの命令の下で天国は永遠なものになり、天国とそこでの全ての愉楽はアッラーに創造されたのである。
3‐全知性
アッラーの1つの属性は全知者であり、天地に起こることも、過去に起こったこともこれから起きることも全て熟知している。アッラーの認知は包括的で、表と裏、本音と建て前、全て細部まで徹底的に熟知している。当然、創造主アッラーの認知と、被造物の人間の限られた知識とは決定的に異なっている。
4‐能力の特徴
アッラーは全知全能である。これは最初の節で触れたアッラーの御名である「威力」で示されている。
そして偉大なる神アッラーは、物事を包括的、正確に把握し、完全な形で管理している。アッラーに不可能なことはない。
アッラーの能力は絶対的な能力として特徴付けられ、それはアッラーだけに供わった能力である。アッラーは、全てのものを創造した永遠の神である。
5‐支配権の特徴
アッラーは全てのものの所有者であり、幽玄界も現象界もよく知っている。アッラーは永遠の絶対的な所有者である。
アッラーはその支配権により様々な規則を人間に課し、自らの創造物を自らの意志によって扱う。
アッラーは、その完全な知識に基づき、人間を裁く。アッラーは永遠の真理の王者である。全世界の創造主は彼しかおらず、全世界を処理するのも彼しかいない。
6‐「王座に鎮座する」こと
まず、アッラーが「王座に鎮座する」(クルアーン記述)ということは、人間が何かに鎮座することとは比較出来ないことである。アッラーに比べられるものは何もない。
「王座」はアッラーの最も立派な創造物である。アッラーは自分が「王座に鎮座して」おり、自分が「王座」の主であることで自分を褒め称えている。
アッラーが「王座に鎮座している」ということは、彼の偉大さ、特別な地位、そしてその地位は絶対的、且つ普遍的であることを示している。
アッラーが王座にいるということは、決して人間がベッドや船の上に置かれているようなことではない。
アッラーは全てのものを創造した永遠の神である。
アッラーは、人間を何もないところから創造し、その後に場所と時間を創造した。アッラーは、自分の完璧な英知に基づいてお望みのことを成し遂げられる。アッラーは全てのことに全能であり、彼に比べられるものはない。
場所と時間はアッラーによる創造である。
よってアッラーは、場所、時間を超越した存在である。
場所と時間が創造される以前は、創造主であるアッラーしか存在しなかった。
よってアッラーは自らが創造したものの上に高く座し、自身、地位、栄光、抑制をもって全てを掌握している。
アハマド・イブン・ハンバルは以下のように言っている。
「ある人が手に鉢を持ち、その鉢に何か飲み物が入っていれば、その人の視野には鉢全体が入っていることになる。同様に、アッラーは創造したものの全てを把握しておられる。」アッラーは創造した全てのものを把握しており、その裏と表のこと全て知っておられる。
イスラム教徒は預言者ムハンマドによって伝えられた様々な神の法を信仰し、偉大なる創造主アッラーを称賛する。これは預言者ムハンマドに啓示され、アッラーの特徴やその御名を説明している。
イスラム教徒がアッラーを称賛することは、アッラーが人間に定めた本性と一致する。そして、それは、アッラーから授かった正常な脳の働きによるものである。この脳は人間が至高なるアッラーの特徴を知り、立証する。それを軽蔑したり、汚したりするものを受け入れない。
アッラーは、預言者ムハンマドが伝えたイスラーム教を以て正しく称賛されるようになったのである。
õ õ õ
アッラーの絶対的な能力の証明
アッラーの完全なる知恵と英知・アッラーの偉大さの特徴
至高の神(アッラー)は聖クルアーンでこう述べられている 。
「アッラーは何かを望まれると彼が「有れ」と御命じになれば即ち有る」
[聖クルアーン第36章82節]
つまり、アッラーは何かを望まれると、一度命令するだけで十分なのである。繰り返し言い張る必要はないのである。
天と地の鍵はアッラーの意志にあり、物事は全てアッラーの意志によって左右される。地球とそこにある天と地、銀河、惑星などの創造、アッラーの能力を示す証拠は数え挙げられないほどである。
人間の想像力を超える、不思議とバランスのとれたこの宇宙。また、人間の創造やアッラーが人間に与えられた限りない恵み。また、現代科学で証明されたこの宇宙のバランスと調和、人間と他の生物とのバランスと調和もアッラーの絶対的な能力を示していると言えるだろう。
ここで、今まで紹介してきた証拠とは別に、アッラーの絶対的な能力を示す証拠を紹介したい。
生まれつき備わっている人間の善性と健全な精神
人間は昔から神の存在を知り、起きた天災や災害から救うのは、無限の能力を持つ神のみであると理解していて、健全な精神を持つ者は神の存在や能力を否定しなかった。人間の体がどのように成り立っているか、それは医学を始めその他の科学の著しい発展と用具・施設の発達により明らかになったのだが、人間は自分の身体を観察するだけでアッラーの偉大さが解るのである。また、天や地、惑星、銀河、周りの生き物、植物などをよく見ても、アッラーの絶対的能力や優れた創造を実感することが出来るであろう。人間に生まれつき備わっている善性や健全な精神はアッラーの絶対的能力の証明である。
アッラーが遣わした預言者と使徒、そして、彼らが起こした奇跡は彼らの正しさを証明している。
人々をアッラーへの唯一信仰(アッラーの絶対的な能力とその知恵の認知)へ導くように、アッラーは人々に預言者と使徒を遣わされた。アッラーは使徒や預言者を遣わす時、唯一神信仰や、アッラーの存在を示す証拠になる様々な奇跡を彼らに与えられた。預言者ムハンマドには、神からのメッセージが正しいことの証拠として「月の亀裂」の奇跡が与えられた。
全能のアッラーの絶対性と永久性
アッラーは誰かから生まれてきたわけではないので、配偶者や子がほしいわけではない。彼は無から全てを創造した創造主であり、彼の英知と意志で全てを創造する。よって、アッラーには似非信仰者が言っているような、配偶者や子など存在しない。
アッラーにはこのようなことがあるわけがない。アッラーは先にあった存在で、彼の前には何物も存在しない。前述したように本能的、論理的、科学的な証拠でそれが証明されている。
人間が創造物としての自分自身をよく見てみれば、両親の存在が自分の存在に起因すること、またその両親には祖父母が存在すること、そのようにずっと先を辿っていけば、必然的に永遠の創造主アッラーへと考えが行き着くはずである。私たちは生まれる以前には無だった。何も無かった。アッラーは絶対的な全能の存在で無の状態から人間を創造した。
それ故、人間は常に周りにある物事を見ながら、なんらかの理由があって自分は創造されたのだと認識している。人間と同じように物はもともと無かった。作られたこの創造物には永遠なる創造主がいるはずである。その創造主は全能な存在で、何も無い、無の状態から全ての物を創造した。その創造主こそアッラーである。
前に述べた説明から、創造主は永久的でなければならないと推測できる。つまり、永遠に生き、死なず、滅びることのない存在なのであろう、と。
あらゆる本能的、論理的、科学的な証拠により創造主の永遠性が証明されているということは、例え人間の頭でアッラーの絶対的な能力のあり方が理解出来なくても、理性ある人にとってアッラーの絶対的能力の証拠になっている。なぜなら人間自身が被造物だからである。アッラーは何も無い状態から人間を創造した。
人間の脳の能力は限られており、この能力以上のことは理解出来ない。その例を挙げよう。一つの小さいカップにこのカップの体積の二倍分の水を入れることができるだろうか。もちろんできない。この小さいカップにその二倍の水を入れることができなければ、地球にある海、海洋、川などの水を入れることなど、勿論出来ない筈である。
人間の脳はこの小さいカップのように限られたものなので、創造主の絶対的能力のあり方が完全には理解出来ない。水の話は一例として紹介したので、最新科学を以て、水の性質を分析しながら、創造主の絶対的な能力をみてみよう。
水分子
一つの水分子は二つの水素原子と一つの酸素原子から成っている。ここで不思議なことは、水素は燃焼しやすいガスで酸素は助燃性をもつガスでもあるにも拘わらず、一緒に化合すれば水ができる。アッラーはこの水に火を消すという特徴を備えた。
絶対的な能力を持ち、比類なき唯一無二の創造主に光栄あれ。
4.アッラーによる魂の創造
アッラーは魂を創造し、人間と他の被造物にある一定の時間を与えた。人がその人生を終え、その魂がアッラーの元に行く時まで。アッラーは人間と他の被造物に死を定めた。そして、アッラーは全てが清算される日(最後の審判の日)に、もう一度人間と他の生物(例えば、動物、鳥)などに魂を戻し、生き返らせるのである。
良い信仰者であれば、アッラーは彼に死後の幸福と天国で報いる。不信仰者、即ち、唯一のアッラーと共に他の存在を(信仰の対象として)並ばせた者、アッラーの存在を否定した者、悪人などは地獄に入る。アッラーはその崇高な英知によって魂を創造し、人間と他の生物の生きる基にした。アッラーは物事の存在理由も一緒に創造した。
アッラーは自ら創造した魂を通して、我々にその絶対的能力を見せ、人間や他の被造物の生きる基としたが、魂は最新の科学技術を以てしても未だに検証されていない。その検証を行うのに必要不可欠な基本的情報すら存在しないからだ。人間と他の生物が生きる基となるこの魂はアッラーが被造物に与えた一つの秘密であり、アッラーが全知全能であることの証拠でもある。
5.アッラーに従う自由と背く自由
アッラーは人間を創造し、唯一神(アッラー)を人間に信仰させる為に、預言者と使徒を遣わした。アッラーは預言者と使徒に奇跡を起こす能力を与え、彼らの正しさを証明しようとした。
唯一神(アッラー)とその預言者、使徒を信じる者たちは、出来る限りその教えを守ろうと努力し、アッラーのあらゆる命令にも喜んで従い、それを直ぐに実行に移すだろう。それはアッラーが勧めたものに近付き、禁じたものから遠ざかる為である。それこそが信仰心であるし、善き信仰者というものだろう。
ところで、アッラーは人間に対し、自らに従うこと或いは背くこと、そのどちらをも強制してはいない。それは個人の自由である。勿論、全知全能の神アッラーは最終的に人間がどちらの道に進むのかを予め知っている。
アッラーはこの世界を人間のテストの場とした。アッラーに従うのか、またその教えに背くのか。よってアッラーはその選択権を人間に強制することなく、我々の裁量に委ねられた。だからこそ本当の意味でのテストなのである。一見、敬虔深い信者を見ると強制されているかのように見えることがあるが、あれは自由の中で本人が選びとった行為なのである。アッラーの命令に背くことなく、命令にだけ従っている存在として天使たちの存在が挙げられる。
天使たちはアッラーを崇拝し、その命令に従うのみである。それは普段、我々が目にする敬虔な信者のたちの態度のように、自由でありながら素早く神の命令に従っている。
このような被造物の多様性もまた、アッラーの偉大なる能力の証明になっている。また自由でありながら、アッラーの命令に素早く従う存在はアッラーの絶対的な能力の証明でもある。勿論アッラーが一旦御望みになれば、出来ないことはない。「有れ」と命じれば即ち有るのである。
質問:創造主は、この広い宇宙とその中に存在する全ての被造物を、とても小さい物、例えば卵の中にしまうことが出来るでしょうか?
答え:はい、アッラーは何かを望まれると、彼が「有れ」と命じれば、即ち有る。最新科学が発見した二つのモデルを通して、アッラーの絶対的能力を証明するこの答えを科学的に明らかにしてみよう。
アッラーは全世界全宇宙を卵かそれより小さなサイズにすることが出来るのか。
以下に、近代科学の発見から答えを見てみる。
染色体
人間の身体は37兆もの細胞から成り立って出来ている。その細胞の殆どは0.03ミリ程の大きさである。生きている原子は、頭では容易に想像出来ない程の極めて複雑な構造を持っている。赤血球のような細胞は例外として、通常、細胞には核(細胞核)があり、その核の中にはその生物を形作り生きていく為に必要な情報が入っている。その情報を担っているのが、リン酸塩と窒素の粒子から成る染色体で、染色体は核の中に複数あるが、通常2本で1組となる。ヒトの細胞の核には、23組、つまり46本の染色体がある。そのうちの1組、2本の染色体を性染色体と言い、その人が女性になるか男性になるかを決めている。因みに女性はXX、男性はXYと表現される。
染色体は極めて長いので、小さな核の中に納める為に、特殊なタンパク質と一緒に折りたたむ必要がある。各染色体の厚みは5千万分の1mmであり、各染色体の直径は50万分の1 mmである。折りたたんでいる染色体を広げたら、その内の1つの染色体は4cmもあり、1つの細胞分の染色体を合わせたら、2m程の長さになる。さらに、人間1人分の全染色体を広げて長さを測ったとしたら、なんと、地球と太陽間の距離の400倍以上も長くなる。ちなみに、地球と太陽の間の距離は1.5億kmに達する。全宇宙の創造主アッラーがいかなる欠陥や落ち度からも無縁である崇高な存在(スブハーナッラー)かと感嘆するばかりである。
人間の理解力には限界がある為、上記のような現象はとても想像し難いかも知れない。しかし、近代科学医療でそのようなことが証明されたので、現段階では否定のしようがない。これこそは、不信論者たちに対する返答である。創造主を目で見たことがない故に、その存在を否定しているのであれば、目で見たことがなく、頭では想像し難い上記のような科学的証拠を否定出来るのだろうか。弱い身体を持つ人間とその限界のある頭では上記の様な事象を容易に想像出来ないのなら、いかにして全ての創造主である唯一無二の神の絶対的な力を想像できるのか。尤も我々は人間が神を尊重し、賞賛することは本能であると考えられるのだが。
では、もう1つの例を挙げてみよう。
②原子の世界
銀河という大きな宇宙の世界も、目に見えない極めて微小な原子の世界も驚くべきことに同じ構造をしている。
原子は、化学元素の最小単位であり、当初は原子が1つの塊であると思われていたが、研究が進み、以下のような構造であることが分かった。
①プラスの電気を持っている陽子という粒と、電気を持たない中性子という粒の固まりで成り立つ「原子核」
②負(-)の電荷を持った軽い粒子である電子があり、互いに繋がらずに相対的な距離があることが発見された。その電子は反時計回りに1秒間に何兆回という極めて速い速度で回転する。
肉眼で見ることの出来ない原子の中にさらにもう1つの内部構成がある。その世界はなかなか想像しがたいかも知れない。原子よりさらに小さな素粒子クォークも発見された。
上記のような科学技術で発見されたことは、アッラーの力の証明ではないだろうか。「大権を掌握なされる方に祝福あれ。本当にかれは凡てのことに全能であられる。」
[聖クルアーン第67章1節]
預言者達を信じること
アッラーの絶対的な力を証明する科学的な例を挙げながら、唯一神アッラーを信じることについて話してきた。その唯一無二のアッラーに並ぶ、対等な存在を勝手に作ることなく、アッラーの唯一性を信じる重要性も明らかにした。
アッラーが人類にアッラーの特徴や崇拝行為の作法、アッラーへより近づく為の方法など、預言者たちを遣わすことによって伝えたのはアッラーの慈悲に他ならない。
ここで疑問が出てくる。
アッラーの限りない知恵によって、アッラーは人類のなかで誰が従順で、そして誰が背信者になるのか当然ご存じでいらっしゃるのではないか。それならば、背信者たちがアッラーに対して背を向けると知りながら何故、そういった人達にも預言者を送ったのであろうか。
それは、その背信者たちに言い訳をさせないためである。背信者たちにアッラーは不正義であるなどといった言い訳をさせない為に、アッラーのしもべである全人類に対して、預言者たちを遣わしたのである。アッラーは本当に公平なのである。
遣わされた預言者達の特徴
純粋な本能(フィトラ)と優れた能力を持つ
アッラーは人類を創造した際、唯一性を信じる本能も備えられた。その本能を持つ人間に対して、同じ言語が話せる預言者が遣わされた。その預言者たちはアッラーからの啓示を受け、周りの人に善行をする者には報酬が与えられ、悪行をする人には罰が与えられると警告した。
アッラーの知恵を信じる
アッラーの限りない力については科学的な証明を先に述べた。アッラーは完全性を持っていることも明らかにした。創造主の美名も特徴も完璧である。また、唯一の創造主、神は人間の身体的欲求(身体が必要とすること)を満たすもの、例えば、食料、飲料、多種多様な植物、動物、水なども創造され、さらに全宇宙の均衡を保ち、地球や太陽、月などを授けた上に、精神を満たすものも授けられた。精神を満たすものとは、宗教、教えなどを以てアッラーを知ることができ、アッラーに近づく方法を知ることである。人をアッラーの道へ導くという課題を担わされたのは、預言者たちであった。
人間の中には、預言者など必要なく自らで善悪の判断が出来る、などと言う者もいるが、人間は一人では何も出来ず、無力である。人間同士で正しい道を勧め合うことによって、正しい道がなんたるかを思い出し、知識を豊かにすることができるのではないだろうか?良識を持ち合わせた英明な者であれば上記の内容について納得してもらえるであろう。
人間に預言者たちを継続的に送ることにより、人間へのアッラーの約束を更新することになる。預言者を遣わすことは人間に対する慈悲である。例えば、ある王に反対派が抵抗して王の命令に背いたなら、その王は公平さと正義を以て、まずは罰を与えるより先にその人に警告する者を送るのではないだろうか。それは王の慈悲と正義と寛容さから生じた行為である。
預言者達によって起こされた奇跡
どの預言者もアッラーの力によって奇跡を起こし、自分がアッラーから遣わされた者であることを人々に証明してきた。預言者ムハンマドの奇跡については先に述べたが、預言者であることが明白になれば、全員が預言者を信じなければ罪になってしまう。
そのため、預言者たちの誰かを信じないとすれば、それは全ての預言者と預言者達を遣わしたアッラーを敵にすることを意味する。
一人の預言者を信じるには、全ての預言者を信じることが必要であり、一人の預言者を信じなければ、全ての預言者を信じないことを意味する。
つまり、ある預言者がある人達に遣わされたら、その人達が預言者のウンマ(ムスリムの共同体、或いは国家)となり、その人達が預言者に従う義務がある。
その一例を挙げよう。ある人が預言者モーセに対して、彼が伝えたかったメッセージを理解した上で彼を信じ、その教えに従ったとする。もしこの人が預言者イエスのいた時代まで生きていたとして、この人が預言者モーセのウンマの一人であるということを言い訳にして、預言者イエスの教えに従わないなどということがあり得るだろうか?
答えはもちろんノーである。その人が預言者イエスの時代まで生きていたのであれば、イエスのウンマの人となり、イエスの教えに従うことが義務付けられ、モーセの教えには従う義務がなくなる。
同様に、預言者モハンマドは最後の預言者なので、ユダヤ教徒もキリスト教徒も預言者モハンマドの教えに従う必要がある。
預言者モーセもしくは預言者イエスの教えに正確に従うのであれば、預言者モハンマドの教えを信仰することになるだろう。なぜならば、タウラー(旧約聖書)やインジール(新約)聖書などの啓典には預言者モハンマドについても言及されているからである。
従って、理論また啓典を以てしても、神様からの最後のメッセージを伝える預言者モハンマドの教えに従うように、導かれることになる。
啓典への信仰
アッラーは人々に吉報と警告を人々に伝える為に、彼らを正しい道に導く為に、預言者たちを遣わされた。そしてそれはアッラーのご慈悲でもあった。
預言者たちに対する信仰の次に、アッラーがその預言者たちに啓示された啓典を信じる必要がある。聖クルアーンにも以下の様に述べられている。「人類は(もともと)一族であった。それでアッラーは,預言者たちを吉報と警告の伝達者として遺わされた。またかれらと共に真理による啓典を下し,それで,人びとの間に異論のある種々の事について裁定させられる。」[聖クルアーン第2章213節]
啓典はアッラーの言葉、教え、立法であり、私たちはそれらを信じる義務がある。啓典の名前が明らかになっているザブール(詩編)、タウラー(旧約聖書)、インジール(新約)聖書、クルアーンは勿論のこと、それ以外の啓典も信仰する必要がある。
クルアーンが最後の啓典であり、最後の預言者モハンマドに下された為、クルアーンはそれ以前の啓典全てを包括していると言える。そのため、クルアーン以前の改竄されたり失われたりした啓典ではなく、アッラーによって保護された最後の啓典であるクルアーンに従わなければならない。
運命への信仰
預言者への信仰は、預言者が伝えたことや預言者に啓示された啓典をも信仰することを意味する。それはアッラーの英知、そしてアッラーは全知全能で全てを掌握なされる存在であることを信仰することである。
預言者ムハンマドによって伝えられたことの一つに、運命への信仰がある。
運命への信仰と言うのは、アッラーがあらゆることを定めた、ということを意味する(天命に近い意味がある)。
「(アッラーが)一切のものを創造して,規則正しく秩序づけられる。」
[聖クルアーン第25章2節]
アッラーによって定められた運命は、アッラーの知恵に基づいて決められたことなので、必ず人間の人生や生き方に良い結果をもたらすであろう。
アッラーがなされることや人々がしていること、または宇宙にあるものも全てアッラーの意志によって起こり、アッラーの意図なしには何事も起こりえない。
「最後の審判の日」の信仰
最後の審判の日の信仰は「来世の審判」と「裁定が下される日」を意味している。
最後の審判の日の信仰の中には、墓の中に入っている期間も含まれている。人が亡くなり、墓地に入る際に次のような質問が投げかけられる。
•あなたの神は誰か
•あなたの宗教は何か
•あなたの預言者は誰なのか
アッラーを信仰する者、もしくはイスラム教徒でなければ、お墓の中で来世まで拷問され、審判の日に厳しく拷問され、永遠に地獄に落とされてしまう。
もしアッラーを信仰して、アッラーの教えや命令に従っている人であれば、自分の墓が天国の一部になり、審判の日に自分の罪が見せられるだけで、永遠に天国にいることができる。
もしイスラム教徒であっても、アッラーの命令に従わない人であればアッラーの判断に任され、一時的に地獄に入り、その後に天国に入るか、もしくはアッラーの慈悲により全ての罪が許され、天国に入ることになる。
来世に関して
健全なフィトラ(本能)と理知的思考
アッラーは現世をテスト期間として設けている。現世の短い人生でアッラーの命令に従うかどうか、禁じられたことをしないかどうかが試される。人は他界した後に裁かれ、その裁きによって報いられるか、或いは罰が下される。
普通に考えてみれば、善人と悪人の最後が同じになるはずはない。現世で善い行いをした者と、悪い行いをした者はそれぞれ公正に裁かれるべきである。
よって、人間を公平に扱う為に、最後の審判の日を必要とする。虐げられた者の権利を取り戻し、虐げた者に相応しい報いが与えられる必要がある。
「われが、信仰して善行に勤しむ者と、地上で悪を行う者と同じに扱うことがあろうか。われが(悪魔に対し)身を守る者と、邪悪の者とを同じに扱うであろうか。」[聖クルアーン第38章28節]
「われは信心深い者たちを、罪人のように扱うとでもいうのか。あなたがたはどうしたのか。あなたがたはどう判断するのか。」[聖クルアーン第68章35,36節]
最後の審判の日がなければ、善人と悪人が同等になってしまう。さらに、最後の審判の日を信じるからこそ、道徳を守ることにつながる。さもなければ、正直者は「なぜ自分は不正を行わないのであろうか。不正を行うことで、利益を獲得できるのに。」と疑問に思うことが出て来るであろう。
預言者たちに来世について告げた
アッラーは預言者を遣わした際、その民族が預言者は偽者であると思い込まないように、預言者が奇跡を起こす能力を与えた。明白な証拠や奇跡により、預言者たちはアッラーから来世について学び、さらに預言者たちは自分の民にも来世について教えたため、我々は来世を信じざるを得ないのである。
アッラーの英知により復活とその報いを必然的にした
抑圧された者が不義のまま死んだり、虐げられた者が被害を受けたまま死んだりすることがある。さらに、善人であるにも関わらず苦労をしながら生き、悪人であるにも関わらず、快楽を味わいながら生きている場合もある。このような場合、最後の審判の日がない、或いは加害者と被害者にそれ相応の応報がないとしたら、神の正義が実現されなくなってしまう。そのため、アッラーは人類を全員集合させ、裁く日を用意された。
「あなたがたは、われが戯れにあなたがたを創ったとでも考えていたのか。またあなたがたは、われに帰されないと考えていたのか。」[聖クルアーン第23章115節]
「またイスマーイールとアル・ヤサアとズ・ル・キフルを思い起せ。かれらは皆優れた者であった。」[聖クルアーン第38章48節]
「人間は、(目的もなく)その儘で放任されると思うのか。」[聖クルアーン第75章36節]
人間が他界した後に復活する証拠
人間の最初の創造
何もないところから土で人間を創り、さらに人間の成長過程においての変化も創ったアッラーは勿論人間を復活する能力も持ち備えている。人間は土から創られ、そして死後、身体は土と水に分解されるが、近代科学により尾骨という骨だけは土に分解されないことが判明した。さらに、この尾骨は最初の組織であり、胎児の内臓や身体の全ての繊維は尾骨からできていることが発見された。約千四百年前に預言者ムハンマドの言行録(ハディース)により以下のことが伝えられている
「アーダムの子孫全員が土に食われる。尾骨以外は。その尾骨から人間が創られ、尾骨に組み立てられるのである。」[サヒーフ・ムスリム]
つまり預言者ムハンマドのハディースはアッラーの英知により、経典の民への最後の印となったのである。
睡眠と覚醒
睡眠は程度の浅い死の様なものであり、覚醒はその死後の復活のようなものである。つまり人間は小さな死と復活を毎日繰り返しているのである。
地球の滅亡後の復活
アッラーは死んでいたこの大地を再び甦らせ、雨を降らせ、穀物を生やし、穀物を人の食料にしたように、人が死んだ後に、甦らせる力を備えている。
乾燥した木から、火が生まれる
つまり、あるものから正反対のものが生まれることである。
樹木の本質は潤っていて寒気を持っているものである。火は乾燥していて、熱いものである。あるものから反対のものを創られるアッラーは死から生を創られ、死んだ人を甦らせることができるのである。
他の創造物の素晴らしさ
アッラーは天と大地を造られたのだから、当然、弱い存在である人間を創造することができる。
注意点
来世を信じることは、死後お墓の中の世界の快楽や拷問をも信じることに結びつくことは上述した通りである。つまり、我々には目撃したことのない世界が待っている。現世での行為によって、墓で恩寵に恵まれる善人か、苦痛な懲罰で報われる罪深い人なのかが決まる。
ところが、不信心者たちは、墓における懲罰を否定することがある。例えば、スペースが足りない為、同じ墓に数人を入れる必要性があるとか、善人と悪者が一緒に入ったら、お墓の中は快いものになるか、それとも拷問になるか、などと言う。
このような疑問には次のように回答できる。
まず、試練の人生に生きていながら、アッラーは我々に死後の世界で起こることを見せてはくれない。例え墓が開いたままでも、死者が例えお墓に入れなくても、死後の世界での二人の天使との質疑応答や裁きの流れは、通常生きている者には見ることができない。
そして、墓に何人入ろうとも、アッラーにはそれぞれの人間を、区別して裁く力がある。例えば、現世で二人の人間が隣り合って寝ていても、違う夢を見るではないか。一方は悪夢を見ていながら、隣の人はよい夢を見ているかもしれない。その二人の前に起きて立っている我々には、二人の夢を見ることはできない。そして、その二人が起きて、それぞれ見た夢を語ったとしたら、聞いた話を否定出来るだろうか。我々も同じように、アッラーから啓示を受けた預言者たちの教えを信じるしかない。
õ õ õ
導きはどこにあるのか?
多くの人間は導きを追い求めている。この世の創造主は誰なのか、真の神はどこにいるのかなどと考え、真理を追い求める。一神教である啓典の民の宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム、そのなかでイスラームを選ぶ者も多い。それは本能的にアッラーが送った宗教に傾倒出来るからであろう。預言者ムハンマドを遣わして、人々にイスラームの教えを啓示したアッラーは人間に健全な知性を持たせたため、人はイスラームに出会ったら、普通その内容を受け入れるものである。イスラームの教えの美しさ、幅広い慈悲などは人間の知性と理性に一致するからである。
最後に遣わされた預言者ムハンマドの特徴を指摘しておきたい。
上述したように預言者ムハンマドが遣わされた時代までは、人間がさまよい、戸惑って、誤った道に迷ったら、アッラーは人々に預言者を遣わしていたのである。それは腐敗、不正、混乱などが広がった後に、正しい道に人々を戻す為であった。それによって、人間は再び正しい教えに戻り、美徳を知り、アッラーに感謝する心を培ったのである。預言者ムハンマドもまさに人間を闇から救い出す為の光として遣わされた。至高のアッラーはこう仰せられている。
「預言者よ、本当にわれはあなたを証人とし、吉報の伝達者そして警告者として遣わし、アッラーの許しで(人びとをアッラーに)招く者、光明を行き渡らせる燈として(遣わした)のである。」[聖クルアーン第33章45,46節]
また、こんな節もある。
「かれらは文字を知らない預言者、使徒に追従する者たちである。かれはかれらのもっている(啓典である)律法(旧約聖書)と福音(新約聖書)の中に、記され見い出される者である。かれは正義をかれらに命じ、邪悪をかれらに禁じる。また一切の善い(清い)ものを合法〔ハラール〕となし、悪い(汚れた)ものを禁忌〔ハラーム〕とする。またかれらの重荷を除き、かれらの上の束縛を解く。それでかれ(使徒)を信じる者は、かれを尊敬し、かれを助けて、かれと共に下された御光に従う。これらの人びとこそは成功する者たちである。」[聖クルアーン第7章157節]
「われはあなたがたの一人をわが使徒として遣わし、わが印をあなたがたに読誦して、あなたがたを清め、また啓典と英知を教え、あなたがたの知らなかったことを教えさせた。だからわれを念じなさい。そうすればわれもあなたがたについて考慮するであろう。われに感謝し、恩を忘れてはならない。」[聖クルアーン第2章151,152節]
õ õ õ
ムハンマドが神から遣わされた真の預言者であることを示す諸要素
第1の要素:預言者ムハンマドがもたらした教義
預言者ムハンマドがもたらした教義は信仰者たちのモラル上昇につながった。人類の創造主が誰であるかを理解し、アッラーのみを崇め、アッラーが啓示した啓典の教えを実践することによって、従来執着していた世俗的欲望や偶像崇拝から解放され、唯一無二の神(アッラー)に帰依するようになった。
預言者ムハンマドは(「イスラームにおける創造主の特徴」で上述した)「タウヒード・アッルブービーヤ」と「タウヒード・アッルウルーヒッヤ」を紹介し、崇拝に値する神アッラーの特徴を明らかにした。得も害もない偶像崇拝をやめ、この宇宙を創造した創造主をこそ崇拝するよう呼びかけた。
また、アッラー以外の全てのものは被造物であるため、それらは崇拝されるに値しないと主張した。
当時アラブ人は偶像崇拝を、ペルシャ人は拝火教(ゾロアスター教)を、そしてキリスト教徒は人間として遣わされた預言者イエスを神とし、また同時に神の息子と呼び(三位一体)崇拝していた。しかしその後、預言者ムハンマドが、より理に適った宗教イスラームをもたらし、神が人類に生まれながらに与えた本能に純粋に従う人々はそれを受け入れたのだった。
第2の要素:神の家カアバ(いわゆるカーバ神殿)
偶像を一掃して神の家カアバを清めたこと。
至高のアッラーは次のように仰せられた。
「本当に人々のために最初に建立された家は、バッカ(マッカの古代の名)のそれで、それは生けるもの凡てへの祝福であり導きである。」[聖クルアーン第3章96節]
また、こんな節もある。
「われがイブラヒームのために、(聖なる)家の位置を定め(こう言った)時のことを思いなさい。「誰も、われと一緒に配してはならない。そして周回(タワーフ)する者のため、また礼拝に立ち〔キヤーム〕、立礼〔ルクーウ〕し、額ずく〔サジダ〕する者のために、われの家を清めよ。」[聖クルアーン22章26節]
マッカ(メッカのこと)のカアバ神殿はアッラーを崇拝するために最初に築かれた館で、アラブ人は毎年そこに巡礼していたが、時がたつにつれて、悪魔が忍び寄り、アッラー以外の物を美しく飾りたて、それらの偶像を神への仲介だとし、徐々に人々は偶像を崇拝するようになった。
カアバは、アッラーが地球において人々の為に最初に建立し、聖地としたほど重要な館である。それに関連する「象の輩」の物語について簡単に紹介しよう。クルアーンでもその人々について次のように語られた。
「あなたの主が、象の輩に、どう対処なされたか、知らなかったのか。かれは、かれらの計略を壊滅させられたではないか。かれらの上に群れなす数多の鳥を遣わされ、焼き土の礫を投げ付けさせて、食い荒らされた藁屑のようになされた。」
[聖クルアーン第105章1-5節]
当時、アラビア半島南部のイエメンではキリスト教を奉ずる総督アブラハがいた。アラブ人のカアバへの巡礼から気を逸らせようと、都市サナアーに大きな教会を建築した。黄金が嵌められた大理石、金と銀の十字架、象牙で作れた説教壇など、極めて素晴らしい装飾が施されていた。
ところが、それまでと変わらず、巡礼者はカアバに巡礼を続けたため、総督アブラハはカアバを破壊すると決意して、巨象からなる軍勢で来襲した。これに対しマッカ側は施す策がなかったが、アブラハの巨象はカアバに近づくと跪いてしまい、いくら叩いても動かない。イエメンに、またはレバント諸国(地中海東岸の国々)に向けさせようとすると動くのに対し、カアバ神殿に前進させようとしたら一歩も進まない。そして、鳥の大群の投ずる焼きつ土の礫が,大雨のように降り,侵略軍は壊滅した。と伝えられている。
この事件は預言者ムハンマドが生まれた同じ年に起きた。ユダヤ教もキリスト教も偶像でいっぱいになっていたカアバを浄化することは出来なかった。そこで、アッラーは最後に預言者ムハンマドを遣わし、完璧なイスラームの教義で人々の信仰を掴んだ。最終的には、ヒジュラ歴8年に預言者ムハンマドが(その信仰をめぐって対立していた)マッカを降伏させ、カアバに黒石を嵌め込み、カアバの周囲にあった360体の偶像に矢を放ち、その全てを破壊した。
最近発見されたこと
宇宙から見て、マッカ(メッカのこと)を中心に円を描いたら、その円は陸を全て包む。つまり、マッカは陸の真ん中に位置し、世界の時間の真ん中でもある。アッラーはクルアーンでマッカを諸都市の母とした。聖クルアーンにもこう書かれている。
「また諸都市の母(マッカ)とその周辺に、あなたが警告するためである。」[聖クルアーン第6章92節]
このように地球の首都とも言えるマッカは人類に普遍的なメッセージを発信した都市でもある。
(1)ザムザムの水
ザムザムの泉はマッカが祝福された都市であることを象徴する奇跡の一つで、アッラーにとって預言者イブラヒームと息子イスマーイール、その母のハジャルを記念する場所でもある。ザムザムの水が多孔質でない火成岩と変成岩の層の間から湧き出ているが、大変興味深いことに、何度も埋め立てられたにもかかわらず、3000年以上にわたって湧き出ている。この水は神秘に満ち、神から祝福されていると考えられていて、多くの疾患の治療に使用されている。この水が遥か彼方の遠方の地から流れて来ていることは、メッカが地球の重力の中心であることを証明しているのかも知れない。
(2)黒石
預言者ムハンマドは黒石について、正に天国からの石だと述べ、黒石は後に内部構造が地球の石と異なることが発見された。これも預言者ムハンマドが指摘した通りである。
カアバの周囲を周回することについて
カアバを周回することは宇宙の動きと調和する意味も持つ。カアバを左にして、それを反時計回りに巡ることを考えてみると、
原子は核を含んでいる。その核の周りを7つのレベルのエネルギーが周回していて、それはちょうど周回時のカアバの周回数と一致する。そして、その7つのエネルギーの周回方向は反時計回りであり、ちょうどカアバを周る方向とも一致する。
地球の自転も反時計回りである。
地球は自転すると同時に、太陽の周りを回る。太陽を回る方向も反時計回りでカアバを回るイスラム教徒たちの周回する方向と一致する。
卵子が男性の精子を受精する時、まず自らの中心を周り、それから、精子と一緒に反時計回りに動くのである。つまり宇宙の様々な被造物の周回方向は、巡礼者がカアバを周る方向と一致し、その巡礼は世界全てのものとの調和しを意味している。
礼拝時の平伏の方向の意味
カアバに向かってひれ伏すことは、精神的・身体的な病に特別な効果があることが発見された。人間には身体は多くの正電荷があり、それらが過剰に増えると体に悪影響を及ぼすので、それらを排出する必要がある。そこで人間がカアバ神殿に向かってひれ伏す時、その正電荷が地面に移動し、排出することが出来るのである。
第3の要素:預言者ムハンマドの素性と特徴
預言者ムハンマドの家系
預言者ムハンマドはアラビア半島の中心都市マッカの支配部族であるクライシュ族出身で、その名門ハーシム家の出であった。預言者ムハンマドが誕生した頃、祖父のアブドゥルムッタリブはハーシム家の最上位を占めており、極めて気前がよいことで知られていた。預言者ムハンマドは成長するにつれ、正直さ、寛大さ、誠実さといった徳の高さの面で知られるようになった。
預言者ムハンマドが生まれた時代は「無明時代(ジャーヒリーヤ時代)」と呼ばれる。つまり、多くの「神話」が流布し、部族主義がはびこり、退廃的娯楽が広まり、最後の審判の日が深く考えられていなかった無知の時代という意味である。
その人々の中で、預言者ムハンマドは幼い頃から、人々の彼に対する信頼の篤さゆえに、「正直で誠実(アミーン)」という名で呼ばれ、メッカで13年間布教活動をしてから、マディーナへ移住(ヒジュラ)を決めた際、人の信託や預け物を返すように従兄弟のアリー・ブン・アビー・ターリブをメッカに残し、預け物の返品を任せたほど誠実な人物であった。
預言者ムハンマドは、若い頃から偶像を崇拝をせず、過度の娯楽や遊びを好まない真面目な青年であった。預言者ムハンマドは、大天使ジブリールが預言者ムハンマドにアッラーからのメッセージを啓示した瞬間、その後の布教の為に、長らく苦労することを覚悟した。努力を惜しまず、忍耐する必要性を感じたのである。預言者は世界の各地域の国王に書簡を送り、イスラームを広めるよう努めた。またエチオピアのナジャーシ王、エジプトの支配者アル=ムカウカス(キュロス)、ビザンチン皇帝のカイサル(ヘラクレイオス)などにも書簡を送り、イスラームの教えを説いた。中には、最後の預言者の登場を直ちに知っていた王もいて、容易に信仰を承諾した支配者もいれば断固拒否した支配者もいたが、各地にイスラームという宗教は少しずつ広まっていった。
文盲の預言者ムハンマドと彼の布教
預言者ムハンマドは文盲であったという。最近近代科学が発見した科学的な事実は、預言者ムハンマドによって千四百年以上も前から世界に伝えられていたのだが、それこそクルアーンが単なる書物ではなく、神から啓示された言葉だったという証明である。文盲の預言者ムハンマドが伝えたクルアーンに記述されている事実が紛れもなく、預言者ムハンマドに啓示された神の言葉であり、ムハンマド自身や他の人間によって創作されたものでないこと、また預言者ムハンマドが神から遣わされた真の預言者であることの証明でもある。近年になって初めて精密機械や高度な科学的手段によって発見され、証明された事実を、千四百年も前に生きた人間が知り得たとは到底信じられないからである。
アッラーが仰せられた通り、「また(自分の)望むことを言っているのでもない。それはかれに啓示された、御告げに他ならない。ならびない偉力の持主が、かれに教えたのは、優れた知力の持主(神について)である。」[聖クルアーン第53章3-6節]
つまり、預言者ムハンマドは文盲だったので、宇宙の現象を読むこともなければ、当時の砂漠の環境を知ることもなかった。では、その全てを教えたのは、神でなければ、誰であろうか。
第4の要素:迅速な布教と、常に神を思い起こす信仰心
預言者ムハンマドは世界で最も神(アッラー)に畏敬の念をもち、最も神の名を唱えていた人物だと見なされている。彼の教友も親族もそのことを見て後代に伝えた。
預言者ムハンマドは常にアッラーの名を唱えていた。朝に夕に、密かにまた公然と、苦しい時にも楽しい時にも、旅先でも地元でも、常にアッラーの名を唱えていたと。
第5の要素:現世の富裕と魅力への執着の無さ
もし預言者ムハンマドが神に遣わされた者でなかったとすれば、イスラームを布教することによって何を得られたのか?。布教をしている間にも、彼は多くの面で苦労し、迫害や罵倒の憂き目にあった。しかし、当時預言者ムハンマドと敵対していた人物ですら、彼の性格は極めて理性的で、賢明で、英知ある人間だったと証言していたのである。
金品が目的だったのか?。
ムハンマドは、アッラーから財産や高い地位を、そして、クライシュ族からも同様の待遇をうけていたが、そのような現世的な名誉を拒否した。多神教徒たちも彼に王位の座を譲り渡してもよいと勧められた程だが、例え全世界の富を手に入れてもイスラームの布教をやめない、と主張した。
また、敵が撤退し服従した際、数えきれないほどの戦利品を得ながら、それらを貧しい人の為に費やして、自分は腰が痛む程の堅い敷物の上に寝ていたことからも、彼の現世欲から離れた質素な生活が分かるのである。
更に預言者ムハンマドについて伝わった言行録(ハディース)の内容を読むと、彼は極めて謙虚で、この世から欲しい物理的なものは何もなかったことが見うけられる。
預言者ムハンマド自身はともかく、家族の婦人や教友たちにも同じようにするよう指示していたのである。娘のファーティマでさえ、父である預言者ムハンマドから何の財産も受け継がなかった。全ては貧しい人の為の施しだとされたのである。
上記のように、預言者ムハンマドは現世から何も望まず、真の楽しみのある来世こそが本当の意味での勝利だと心から信じていたのである。
第6の要素:預言者とその教えイスラームへの不信心者たちの態度、イスラームの勝利
最初の瞬間から不信心者たちは敵意を抱いた。預言者ムハンマドにも、彼を信じて信仰を抱いた者たちにも暴行したり暴言をはいたりした。酷い拷問にさらされた教友も少なくなかった。礼拝の呼びかけをしていたビラールもそのうちの1人で、イスラームに入信後、その主人ウマッヤ・ブン・ハラフから首を紐で絞られ、マッカの山々をひきずり回され、酷く苦しめられた。主人は猛烈な暑さの中、ビラールを跪かせて杖で叩いては正午に巨大な石を胸に乗せ、ムハンマドの教えを拒否して偶像崇拝をするか、それとも死ぬまでそこにいるか、などと脅迫し、酷い拷問を繰り返していた。それでも、ビラールは、「アハドゥン・アハド(唯一無二の神を信じている)」としか答えなかった。
不信心者たちはあらゆる武器を用いて、預言者ムハンマドに従った人々の信仰心を止めようとしたが、失敗に終わった。最終的には彼ら自身が預言者ムハンマドの布教の教えに従った。
預言者ムハンマドの死後、表ではイスラームを信仰して、裏ではただの偽善者であり、さらにエスカレートして自分が預言者だと称したムサイラマ・アルカッザーブのような者も現れたが、虚偽をしたムサイラマも、彼に従った者も真のムスリムたちと戦い、敗れた。
アッラーは誠実で真の預言者であるムハンマドに勝利を与え、歴史にも永遠に名を留めさせたのに対し、偽善者たちは徹底的に打ち負かした。その上、預言者ムハンマドの名をアッラーの名とともに唱えさせた。礼拝の呼びかけ(アザーン)と礼拝開始を知らせる句(イカーマ)でも、礼拝の中の証言儀礼(タシャッホドゥ)でも、イスラームへ入信する際の信仰告白でも、
「アッラー以外神はなし。預言者ムハンマドはその使徒であることを証言する。」
と唱えるのである。
さらに、預言者ムハンマドの名前を記述する際は、続けて「彼に平安あれ」など称賛の言葉を付け足すことが勧められている。
もしムハンマドが偽の預言者だったら、アッラーからこれ程多くの勝利を得て、歴史的に高い位置を獲得したのであろうか。
第7の要素:預言者ムハンマドの奇跡とその最良の奇跡であるクルアーン
全世界に向けた導きの書―聖クルアーン―
クルアーンとは人類に下された最後の啓典で、その後は神から一度も啓典が下されていない。クルアーンは一回の啓示で完全な本となったのではなく、二十三年にわたって段階的に啓示が下された。二十三年という期間はその時代に生きた人達が理解し、納得し、容易に啓示を生活にとり入れる為に必要な期間であった。当時の人びとの生活にそって、長い時間をかけて段階的に確立された様々な警告や忠告などの聖なる言葉は、その時代の人々にも、そして現代の人々にも模範的な教えとなったのである。
クルアーン以前に下された啓典は全て人間の手によって書き換えられ、人間には任せてはおけないことが明らかになったため、クルアーンだけはアッラーに保護されると約束され、アッラー自らが最後の審判の日までクルアーンの言葉を守ることになったのである。
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アッラーは自らの言葉をまとめたクルアーンをどのように保護したのか?
預言者ムハンマドはアッラーによる聖なる言葉を直接受け取ったのではなく、大天使ジブリールを通して授かった。預言者ムハンマドの存命中は、授かったクルアーンを教友たちに朗唱していたので、その言葉は多くの教友たちの胸に残されていた。預言者の死後、多くの教友たちはクルアーンを全て暗記していたが、一冊の本の形にはまとまっていなかった。第一代カリフのアブ・バクルがまずクルアーンを一冊の本に収集し、第二代カリフのウマル・イブン・ハッターブが継承し、第三代カリフのウスマーン・イブン・アッファーンの時代に、当時あった四種類のクルアーンテキストが一つにまとめ上げられた。当時からクルアーンのテキストは存在したが、外国人ムスリム(イスラム教徒)や非アラブ人の間で、それぞれ読み方、発音の仕方が異なっており、それらを一つにまとめ上げた彼の功績は今でも高く評価されている。
クルアーンの特徴
矛盾がなく、現状に相反しない。
アッラーに守られたからこそ、未だに世界中のクルアーンは一文字も変わっていない。「かれらはクルアーンを、よく考えてみないのであろうか。もしそれがアッラー以外のものから出たとすれば、かれらはその中にきっと多くの矛盾を見出すであろう」[聖クルアーン第4章82節]
人間を道徳的精神へと誘う。
本来人間が持っている論理的法則に反しない。
千四百年以上前から教えられた科学的な情報を含むクルアーンの諸奇跡。
クルアーンのアラビア語は極めてきめ細かく、また全ての箇所で最も適切な単語が用いられている。当時のアラブ人は文学に秀で、優れた文章を創作しては、例えばウカーズ市場で弁論大会などを開催して詩や文学作品を発表し、お互い競い合っていた。当時のアラブ人は修辞学が優れていたことで知られていたのだが、それでも、クルアーンが下ったらそれと同じような文章を作れる人間はいなかった。アッラーは仰せられた。
「またかれらは言うのである。『かれ(ムハンマド)がそれを作ったのですか。』言ってやるがいい。『それなら、それに似た一章〔スーラ〕を持ってきなさい。』[聖クルアーン第10章38節]
その意味でクルアーンはまさに人間が創作したものではなく、アッラーからの真の言葉なのである。
上述した通り、多くの科学的事実が含まれている。
ここでもう一つ例えを挙げてみよう。至高のアッラーは仰せられた。
「凡そアッラーが導こうと御望みになった者は、イスラームのためにその胸を開く。だが迷うに任せようと御考えになった者には、その胸をまるで天に登ろうとするかのようにしめせばめる(もがき苦しめる)。このようにアッラーは、信仰を拒否する者に恥辱を加えられた。」[聖クルアーン第6章125節]。
この節のなかで、「その胸をまるで天に登ろうとするかのようにしめせばめる(もがき苦しめる)」という喩えがある。まさに近年発見された通り、天に“上る”(高所に登る)人は上に登れば登るほど、大気圧が低くなるため、息苦しくなるのである。更にここでは登るという動詞「ヤスアド(يَصعد)」に、その強調形「ヤッサアド(يَصَّعَّدُ)」という動詞が用いられ、登るという状態を修辞学的に表現し、どれほどもがき苦しめるのか、こちらにも伝わってくるようだ。クルアーンの単語はこれだけきめ細かいのである。
これ以外の数え切れないほどの科学的な事実はいくつかの書籍にも載っている。
関心のある方は以下のリンクにアクセスすると、日本語で読むことが出来る。
http://www.islam-guide.com/jp/
その第1章はイスラームの真実の証しを諸説紹介している。
→http://www.islam-guide.com/jp/frm-ch1.htm
近年新たに発見された情報がハディースに記載されているという事実
例えば、ハディースの中にこういう言葉がある。
「アーダムの子孫(人類)はみな、尾骨を除いて土に(全身が)飲み込まれる。これにより(人間は)創造され、またこれにより最後の審判の日に復活する。」
つまり、尾骨という脊椎の最後部にある骨は最後まで決して損傷しない人体の一部分である。地中で完全に腐ることはない。 預言者ムハンマドのハディースの中では「尾骨は人間の起源である」とし、最後の審判の日には、どの人間も神により尾骨から新たに発生させられるとした。
人は尾骨から創られる。尾骨は腐らない。最後の審判の日にあらゆる人間の復活は尾骨から起こる。尾骨には原始線条と原始結節が含まれ、これらは成長する能力があって、胎児が形作られる外・中・内胚葉という3つの層を形成することが出来るのである。
原始線状は胎児の発育には不可欠だという実証として、「WARNEK」というイギリスの委員会が、医者、科学者たちに、原始線条がすでに形作られてしまった試験管中で人工受精した卵の実験を行なうことを禁止する、と発表した([7])。
1931年にシュペーマンは"第1次形成体"を細かく砕き、新たに植え付けた。その際、細かく砕くことは実験の結果には、何の影響も与えず、普段と変わりなく第2胚は生じた。
1933年にシュペーマンと他の科学者たちは同じ実験を繰り返す前に、"第1次形成体"をお湯で煮沸したが、第2胚は変わることなく、全く同じ様に形作られた。細胞は何の影響も受けなかったのである。
1935年には、シュペーマンは"第1次形成体"の発見によりノーベル生理学・医学賞を受賞した。
このような二十世紀に発見された事実を、アラビア半島出身の預言者ムハンマドはなぜ知っていたのであろうか。
ムハンマドが真の預言者であるもう1つの印は、彼の祈願が成就したことであった。
さらに、預言者ムハンマドには物理的な奇跡もあった。
月の裂け目(の奇跡)
「最後の審判の日は近づき、月は微塵に裂けた。」[聖クルアーン第54章1節]
マッカの人々は預言者ムハンマドに、本当に神によって遣わされたのなら、物理的な奇跡を見せるように要求した。その際、ムハンマドはアッラーの力で月が二つに裂けたのを集まった人々の前に見せた。
アッラーの慈悲によって、その奇跡への研究が現代まで続き、唯一の神アッラーと預言者ムハンマドのメッセージを知らなかった人々にとって、闇から輝く灯ともなるべくこの奇跡は起きたのである。科学が飛躍的に発展した近年において、月が実際に裂けたことがあるという事が証明された。以下に1つのエピソードを紹介しよう。
ザグルール・アル・ナッガールというエジプトの地質学者([8])によってイギリス人のイスラーム入信の経緯が語られた。
ザグルール博士はイギリスのカーディフ大学で講演を行い、月が裂けたという奇跡について話した後、質疑応答の時間にあるイギリス人から質問があった。
「自分は比較宗教学を夢中になっていた時に、あるムスリムの友人にクルアーンの英語版翻訳をもらった。その内容をざっくり見ようとしたら、最初に開いたページが聖クルアーン第54章最初の節「最後の審判の日は近づき、月は微塵に裂けた。」だった。月は裂けたことがあるというのか。本当なら、再び結合したということなのか、と衝撃を受けた。その真実を追い求めた自分の誠実な心はアッラーがご覧になったのか、テレビを付けると、偶然イギリスのBBCアナウンサーのジェームス・バーク([9])(James Burke)が3人のアメリカ人の宇宙学者にインタビューしていた。
アナウンサーはアメリカの宇宙学者に尋ねた。「飢餓にさらされている人々、識字率が極めて低い国々、技術が遅れている地域などが存在するのに、宇宙旅行の為の予算は無駄遣いなのではないか。宇宙旅行に使用する費用を人道目的の為に費やしたほうが良いのではないか。」と批判した。
アメリカの宇宙学者は、確かに宇宙旅行の為に使用する予算は多額かもしれないが、決して無駄遣いだとは思わない。それらがもたらす人類への利益のほうが大きいからだと答えた。
するとアナウンサーは、「例えば、月への旅行は何の成果をもたらしたのか。米国の旗を揚げるためだったのか。」と再び皮肉交じりに返した。
彼は続けた。「まず、月への旅行の動機は、地球に最も近い天体について調べることだった。しかし、そこで、月がある時、分裂したことがある、という思い掛けない科学的事実が発見された。その衝撃的な事実を発見する為にいくら予算を使っても良かったのだ。月の、縦数百メートルから1キロの深い裂傷の跡、横500メートル~5キロの幅の裂傷の跡があった。表面から見て、直線状またはジグザグ状の線が数百キロメートルに及び、その長いものは9キロ余りあった。その深い穴のなかで、東の海という月の海が一つができており、さらに月面上の長く狭い低地の月の裂溝(Rimaccr Lunar Rilles)ができていたが、それは月の中心から炎が上がり、月が裂けたこと、正にその影響だと解釈されたのだ。
ムハンマドが起こした奇跡は、千四百年後に宇宙学者たちによって明かされ、手に入れたクルアーンが、確実に神の言葉だと確信し、最初に読んだ節が私をイスラームへと導いてくれた。」
とそのイギリス人は話した。
そのコメントを聞いた講演者のザグルール・アル・ナッガールは感激して、クルアーンのこの1節で答えた。
「われは、わが印が真理であることが、かれらに明白になるまで、(遠い)空の彼方において、またかれら自身の中において(示す)。本当にあなたがたの主は、凡てのことの立証者であられる。そのことだけでも十分ではないか。」[聖クルアーン第41章53節]
その通り。アッラーの言葉を人類に伝えたのは、真の預言者なのである。
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ムハンマドが真の預言者であったことを証明する特徴
七つの天の上から至高のアッラーは預言者ムハンマドの高貴な道徳心を称賛した。クルアーンでもこのような節がある。
「本当にあなたは、崇高な徳性を備えている。」[聖クルアーン第68章4節]
以下に預言者ムハンマドの崇高な徳性をまとめよう。
正直
誠実
恥じらい。預言者ムハンマドは処女が結婚する日より羞恥心があったと喩えられる。
気前の良さ。一生貧乏にならないと確信しているかのように太っ腹だった。
恩赦。酷い扱いをされても許していた。
慈悲深さ。信者に対しては勿論、非ムスリム、どんな被造物に対しても慈悲深かった。
親族関係を大事にしていた。
義務の履行。平和でも戦争でも、約束をしたら、絶対に破らなかった。
譲畔。自分より他人に譲り、現世の生活を好むより、永遠の来世を楽しみにしていた。
正義。自分にも親族にも公平な判断をしていた。
知恵。懸命に物事をこなしていた。
勇敢さ。宣教でも参加した戦闘でも極めて勇気があった。
忍耐。心が広く簡単には怒らなかった。
謙虚さ。威張ることがなく、常に謙虚だった。
我慢強さ。どんな苦難に直面してもよく我慢していた。
相談し合う。教友でも上下関係をなくしてよく相談していた。
禁欲。全能のアッラーに恵まれたことに満足していた。
信心深さ。至高のアッラーに畏敬の念を抱いていた。
社交的。同居する者や付き合う友人などに対して優しくて親切だった。
教友が欠席すると、必ずその人について聞き、病人がいたら見舞った。
㉑ 高貴な心。狡賢くなく、邪悪な行動をしなかった。
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ムハンマドが預言者であったことのさらなる証拠:
その行状と能力
いつも特定の対象に深く心を集中していた。
必要がなければ、沈黙していた。
話しの始めにも終わりにもアッラーの名を唱えていた。
文章表現に優れていた。簡潔な用語を用いて、異議深い内容を伝えた。
善悪の区別をつけ、詮索せず、義務も怠らない。
天を見るより地を長く見ていた(謙虚で、視線をそらしていた)。
冷静であった。
卑劣であったり軽蔑されたりするような性質ではなかった。
自分の利益のために一度も憤りを感じたことがなく、怒りを抱くのはアッラーの為のみだった(アッラーの教えに背を向ける者に出会った時など。)
彼の笑いは軽く微笑む程度だった。
教友と笑い話するときもあったが、噂話はしたことがない。
ここまでに挙げた預言者ムハンマドの長所は多数の例のほんの僅かである。
õ õ õ
ムハンマドが真の預言者であったことのさらなる証拠:
外面の完璧性
人間は内面も外面も、つまり性格の良さに加えて美貌であったら、その人の特徴は完璧になる。預言者ムハンマドはまさにそのような完璧な人間だった。
美の基準は時と場所で変わりうるものではあるが、ムスリムの誰もが敬愛し思慕してやまない預言者ムハンマドの見た目の美しさは、心と魂の美しさに裏うちされたもので、そうでない人の姿かたちとは比べものにならないほど美しかったということである。ここで、預言者ムハンマドの顔と彼の姿の特徴について解説しよう。
彼の顔は輝かしく、満月のように煌めいていた。
顔の表情が良く、美男だった。
顔は少し赤みをおび、色白で顔立ちがはっきりしていた。-別の伝承では、「色白で、ほどよく整った顔立ちをされていた。
顔が満月のように丸かった。
それでも、顔は膨らんでいなかった(大きくなかった)。
頬がすらりとしていた。
元々アイライナーが付いているかのような目だった。
眼球が真っ黒で、目の白いところは真っ白だった。
まつ毛が長かった。
眉毛が薄くて長かったが繋がっていなかった。
目が大きかった。
額が広かった。
鼻が高かった。
唇が美しかった。
前歯の間に隙間があり、話すと、光が出ているように見えた。
髪の毛は直毛とくせ毛の間くらい。
頭は大きかった。
顎鬚が濃かった。
首が純銀のようだった。
彼は目立つほどの長身でもなく、小柄なわけでもなかった。(中肉中背だった彼が誰かと並んだときは不思議といつも彼のほうが、背が高く見えた)
胸とお腹の高さが均等だった。(お腹が出ていなかった)
身体が鍛えられていた(脂肪率が少なかった)。
広い肩幅
広い胸。自分の為ではなく、アッラーの為だけに怒りを露わにされた。
預言者の言行録(ハディース:真正書)より
アルバラーが言った。「神の使徒ムハンマドは誰よりも美しく、一番行いが良い人であった。」また、人がアルバラーに尋ねた。「預言者の容貌は刀のようでしたか?」答えて曰く「否。だが月のようであった」と。
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科学者による証言 なぜ彼らはイスラームに改宗したのか?
これまで説明してきたように、イスラームは唯一神(アッラー)の宗教であり、全ての預言者はイスラームの教えで遣わされたという教理を持っている。最後に遣わされた預言者ムハンマドはクルアーンという最後の奇跡を授けられ、それが以前に送られた全ての啓典より包括的で普遍的だったので、クルアーンの後、啓典が下される必要はなかった。
アッラーは多くの人々をイスラームに導き、信仰の心を育んだ。以下の物語はその一例である。
1.数学者でもあり、旧宣教師ゲイリー・ミラー博士
ゲイリー・ミラー博士は人々をキリスト教に誘う為にクルアーンの過ちや欠陥をチェックしようと思って、クルアーンを読むことにした。
ところが、クルアーンを読むと、それは十四世紀も前の古い話、例えば砂漠について取り上げられている書物などではなく、他の聖典にはない特徴を備えた特別な書物であることが分かったのである。
最初彼は預言者ムハンマドの身ににふりかかった妻災難、例えばハディージャやの娘たちや、息子たちの死について書かれてあるのだろう、と考えていたが、さにあらず、「マリアム(マリア)」と題する章の偏見などなく、その中身はマリアム(マリア)に敬意を表しているものばかりであった。預言者ムハンマドの妻アーイシャ、愛娘のファーティマの名の章が一つも無いのにも関わらず、マリアムという章があり、さらに、預言者ムハンマドの名前は全クルアーンで四回しか出てこないのに、イエス(預言者イーサー)の名前は二十五回も繰り返されている。クルアーンの中身を確認した博士は、心からクルアーンに畏敬の念を抱き、そしてそれは博士の人生の転換期となったのである。そして、この聖典は預言者ムハンマドの創作などではなく、キリスト教を人類にもたらした同じ神様の言葉に違いないと信じるようになった。
2.ファンサン・モンテー
フランス国籍であり、パリ大学でアラビア語やイスラーム史の教鞭をとる。クルアーンを読んだことによって、キリスト史も理解出来たと言う。初期のキリスト教徒たちは現在のイスラームと殆ど同じ教えを信じていた。しかし、彼らはキリストを神として見ていなかった。325年にニカイアに([10])おいて、初めてキリストを神と見なすべきかどうかという選挙、投票が行われ、僅か一票の差によって、キリスト、つまりイエスは神の息子だとされるようになった。もし、その一票が無かったならば、イスラーム教徒と同様にイエスは預言者と思われていたであろう、と説明する。
3.レオポルト・ヴァイス(イスラーム入信後はムハンマド・アサドと名乗る)
オーストリア·ハンガリー人の元ユダヤ教徒で、記者、旅行者、作家、言語学者、思想家、政治理論家、外交官、イスラーム学者として活躍。
レオポルト・ヴァイスはある日、イスラーム教徒の礼拝を見て、イマーム(礼拝の指導者)に尋ねた。本当に神はこの単なる反復的お辞儀やひれ伏しの動作を信仰の象徴として期待していると思うのか?自分の心こそ磨き、安らかに礼拝した方が良いと思わないのか。すると、礼拝の指導者は、神は身体も魂も創ったのではないか。両方を創られたのなら、両方で礼拝すべきではないのか。と答えた。
õ õ õ
ユダヤ教徒は、神とモーセだけを信じてムハンマドを預言者として信じていない。キリスト教徒もイエスだけを信じて、ムハンマドを信じていない。
よく知られているように、最初にアッラーはユダヤ教徒に預言者モーセを送り、次にキリスト教徒にイエスを送った。そして最後に、最後の預言者であるというメッセージとともに、ムハンマドを送った。
ユダヤ教徒とキリスト教徒の両方に聞いた。:
「あなだがたは、二人の預言者モーセとイエスに会った事がなく、彼らの奇跡を見たこともない。だから、あなだがたに質問します。」
(最初に、ユダヤ教徒たちに)「モーセの奇跡を見たこともないのに、どうやって、モーセが真の預言者だと認めたのですか?」
(ユダヤ教徒からの)最初の答え:「先祖がそう伝えました。」
私たち(ムスリム):「どのようにして、その奇跡が起こったと知ったのですか?」
ユダヤ教徒:「最初の人が、彼らの奇跡を見てから、引き継いできました。」
次にキリスト教徒にも同じ質問をした:「イエスの奇跡を見たこともないのに、どうやって、イエス様が真の預言者だと分かったのですか?」
キリスト教徒:「先祖が私たちに伝えました。」
と、ユダヤ教徒たちが言った最初の答えと同じ答えが返って来た。
ムスリム:「どうやって、彼が真の預言者であると信じることができたのですか?」
―「最初の人が、預言者の奇跡をみて、真の預言者であると言い伝えてきました。」また(ユダヤ教徒の)2番目の答えと同じである。
ムスリム:「それなら、イスラームの布教にきた預言者ムハンマドを信じるべきではないですか?。彼は、真の預言者です。なぜなら、彼の奇跡については、皆が知っておられるし、彼が真の預言者であるという証明は、他の預言者よりも数倍も多く存在するのですから。」
例えば、このような例がある。モーセの奇跡の一つで、海を二つに割った話があるのだが、預言者ムハンマドにも、月を二つに割ったという話がある。このことは、もっと驚くべきことで、というのも、その時代、天について想像したり考えたりする事さえ容易ではなかったからだ。従って、それは本当に驚くべき事であったといえる。現代科学によって、ようやく月が割れたのを地球から見る事が出来たことが明らかになったのである。ユダヤ教徒たちは、預言者イエスについて、預言者ムハンマドが訂正するまで、「彼には、父親がおらず、母親が姦通されて出来た子供だ。」と悪口を言っていた。そして、キリスト教徒たちは、イエスのことを神もしくは、神の子だと言い出し、信じ始めたので(三位一体のこと)、それを修正する為にムハンマドが遣わされた。キリスト教徒たちが言うように、神に子供がいるわけがない。母親から生まれ、乳をのみ、成長し、食べ、且つ飲んで、全く人間と同じ生活をする存在が、神もしくは、神の子であるわけがない。
従って、全能なる神アッラーは、ムハンマドに次のようなメッセージを送った。
― アッラーの他に神はなし。
アッラーは、唯一なるお方。
御生みにならないし、御生まれにならない。
かれに比べ得るものは、何もない。
全能なるアッラーは、ムハンマドにマリア(イエスキリストの母)についても、メッセージを送った。「彼女(マリア)は、純潔で貞淑である。生まれたばかりのイエス・キリストは、すぐに話し始め、ゆりかごの中で、『わたしは、アッラーの使徒である。』と言ったと言う。」それも、全能なるアッラーが望めば、不可能な事はない、という証明だろう。
ユダヤ教徒たちは、イエス・キリストが姦通によって出来た子供だと嘘をつき、マリアを非難していた。そして、いくつかのキリスト教徒の宗派も彼女について悪く言った。
このような事があってから、全能なる神アッラーは、ムハンマドを遣わし、物事の判断基準を含むイスラームの教義を優しくする事で、真実の宗教―イスラームとしたのである。
この事から、人々は、イスラームを選び、受け入れ、そしてその預言者を信じ、全能なるアッラーから下った啓典、崇高なクルアーンを信じるべきである。それは、全世界の神、全能な創造主から下ったものなのである。
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ムハンマドが全人類の最後の預言者であり、神の使徒である。そしてムハンマドの後には預言者も使徒もいないという証拠
全能なる神(アッラー)は、全ての人々に預言者ムハンマドを遣わし、彼が本当に全能なる神から遣わされた預言者である事を証明する為に、預言者でしか出来ないような奇跡を人々に見せた。そして、ムハンマドは、最後の預言者であり、最後の使徒であるという事を伝えたのである。全ての預言者は神の使徒であるが、全ての使徒が預言者であるわけではない。(全ての使徒にアッラーからのメッセージが下るわけではない。)
「ムハンマドは、あなたがた男たちの誰の父親でもない。しかし、アッラーの使徒であり、また預言者たちの封緘である。」(聖クルアーン第33章40節)
「言ってやるがいい。『人びとよ。わたしはアッラーの使徒として、あなたがた凡てに使わされた者である。』」(聖クルアーン第7章158節)
ムハンマドが全ての人々の最後の預言者であるということ、そして、彼が起こした奇跡について、もう少し見ていきたい。
ムハンマドが預言者であるということは、クルアーンの言葉で伝えられている。
全能なる神の完全なる英知により、以前のメッセージは、完結され、全世界、全時代、全人類おける最後の預言者が送られた。
ムハンマドのメッセージは、全能なる神アッラーから送られたメッセージであり、それは、崇拝行為(礼拝、断食、巡礼等)と、寛大な取引(商売などでの人間関係)、善と権利、美徳を基盤にした正当なイスラーム法からなっている。
聖クルアーンはムハンマドの偉大な奇跡で、今も人々の心に感動を引き起こしている。聖クルアーンは、ムハンマドに下った、唯一の啓典である。そこには、神の言葉が、記されており、全ての人々を正しい信仰へと導いている。何故なら、後世の人の手によって、付け加えられたり、編集、改竄されたりしていないからである。そして、聖クルアーンの修辞的な表現は、アラビア語が母語であるアラブ人でさえ、真似しようとしても出来ない程、素晴らしいものである。聖クルアーンには、科学の分野の他の奇跡も含まれていて、それを読み、影響を受けたり感銘を受けたりした西洋や東洋の科学者たち、医者たち、またその他の人々が、イスラム教徒になった程である。
そして、次のような点にも注意したい。それは、聖クルアーンは、現在も私たちの手元に残る奇跡であり、現世の終わり、そして、最後の審判の日までの奇跡である。だからこそ聖クルアーンはムハンマドが最後の預言者であり、使徒である事をはっきりと示しているのである。
カーバにあった多神教の偶像を取り払ったこと
「本当に人々のために最初に建立された家は、バッカのそれで、それは生けるもの凡てへの祝福であり導きである。」[聖クルアーン第3章96節)
「われがイブラーヒームのために、(聖なる)家の位置を定め(こう言った)時のことを思いなさい。『「誰も、われと一緒に配してはならない。そして、タワーフ(周回)する者のため、また(礼拝に)立ち(キヤーム)、立礼(ルクーワ)し、額ずく(サジダ)者のために、われの家を清めよ。[聖クルアーン第22章26節)
全能なる神アッラーは、最初の神の家をメッカの地に置いた。それは、人々が純粋に神を信仰する為であり、偶像や多神教を崇拝する為ではなかった。カーバは、神聖な場所で、アラブ人はそこに毎年巡礼をしていた。しかし、(イブラヒームがカーバを建てた後)時が経つにつれて、シャイターンが忍び寄り、アラブ人たちにアッラー以外の神、偶像や石などを崇拝させるようにしむけ、そのような状況が何世紀にもわたり続いた。しかし、賢明なるアッラーは、最終的にはアラブ人が信仰していた偶像や石をカアバ(の境内)から取り除かれた。
当時アッラーからのメッセージが何度届いても、アラブ人が多神教や偶像を崇拝する状況は変わらず、ユダヤ教からキリスト教になっても、アッラー以外の信仰対象物、石や偶像をカアバから排除する事は出来なかった。アッラーがお望みになったように、最後の使徒であり預言者であるムハンマドが現れてから、全能なる神アッラーの導きによって、カアバは、(多神教や偶像崇拝などが排除され)清められ、正しい信仰へと導かれた。
全能なる神の導きにより、ムハンマドは、ヒジュラ暦8年(西暦629年)に、メッカを開き、カアバに入り、黒い石をはめ、そこでタワーフ(周回)を始めた。そして、そこにあった三百六十体の偶像に向けて、弓を放ち全てを破壊した。
「言え、『(いまや)真理はくだり、虚偽は、消え去った。』」[聖クルアーン第17章81節)
「言ってやるがいい。『真理(イスラーム)は下り、偽り(邪神)はなんらその後創造する事もなくまた再び繰り返すこともない。』」[34章49節]
「ムハンマドの信徒の共同体(ウンマ)は、共同体の外の他の社会にも布教しなければならない。「また、あなた方は一団となり(人々を)善いことに招き、公正なことを命じ、邪悪なことを禁じるようにしなさい。これらは成功する者である。」[聖クルアーン第3章104節]
「あなたがたは、人類に遺された最良の共同体である。」[聖クルアーン第3章110節]
またハディースにも次のようなものがある。
「預言者ムハンマドは、仰せられた。『悪い事は、自分たちの手で変えなければならない。もし出来ないなら、口で言わなければならない。もし、それも出来ないなら、少なくとも心で思わなければならない』と。」(ムスリム・イブン・ハッジャージュ)
「預言者ムハンマドは仰せられた。『少なくとも一つのクルアーンの一節(アーヤ)でも、私から(他人に)伝えるがいい。』」(アル=ブハーリー)
「預言者ムハンマドは仰せられた。『私たちの言った事や聞いた事は変えることなく伝えるように。聞くひとは、伝える人よりもよく理解するかもしれない。』」(アル=ティルミーズィー、真正書)
従って、預言者ムハンマドの信徒の共同体は、アッラーの言葉(クルアーン)と預言者の言葉(ハディース)を他の社会に、また次の世代に伝えていかなければならない。
―全能なるアッラーを信仰するイスラームという宗教
―規律ある良い生活の為にお互いに教えあう。
―ムスリムは、アッラーから預言者ムハンマドに下った正しい教えと信仰、規律ある人生、寛大な振舞いを人々に伝える必要がある。
預言者ムハンマドの信徒の共同体の中でも、人々の幸福を望んでいる人や、その為に布教、教育、指導をしている人、また、善行いを心がけ、悪行から遠ざかる人は、本当に社会の役にたっているのである。
例えば、教友たち(ムハンマドに直接会った人たち)や教友たちの第二世代は、イスラームを布教し、次々とイスラームを全世界に広めていった。
また、今日では様々なグループや多くのイスラーム学者の団体が、イスラームの布教の為に様々な国や場所に旅行している。
そしてまた、真の宗教であるイスラームの布教を専門にした衛星放送チャンネルを設立し、アラビア語や様々な言語で、最後の預言者であるムハンマドのメッセージを伝えている。
今日では、種々多様な方法で、それこそ世界中で布教活動が盛んである。それゆえ、もはやムハンマドのあとに預言者や使徒を遣わす必要はないのである。上記のように、何度も説明し、証明している事は、
ムハンマドは、人間に送られた最後の預言者であり、使徒であり、ムハンマドの後には、もう預言者や使徒は、現れないのである。ということに尽きるのである。
分派の救済
イスラームの中でも、たくさんの分派ができている。しかしながら、それらは、イスラームの様式とはかなり違い、彼らの教えは、ムハンマドや教友たちの教えに添っていない。
たとえば、シーア派のようなそれらの分派は、イスラームにとって異端である。そして、彼らの腐敗した信仰や間違った教えは、イスラームには関係がない。彼らはアッラーからくだされていない礼拝や規律を捏造した。また次の事を知ったならば、さらによく理解する事が出来よう。
その間違った分派は、自分がムスリムであると主張するユダヤ人によって作られた。彼の名前をアブドッラー・イブン・サバといい、実のところ偽善者であり、イスラームの不信心者である事を隠していた。彼は、ラワヒード(拒絶する人達)と呼ばれるシーア(派)を設立した。その分派は、英知なるアッラーからの導きはなく、不正である。そして、ムハンマドの妻たちを侮辱し、アッラーの使徒であるムハンマドの高貴なる教友たちや、天を司る大天使ジブリールを中傷し、聖クルアーンを冒涜し、自分の欲望のままイスラームの法や規律を変え、第四代カリフのアリーの子孫のみが預言者ムハンマドの代理としてイスラム共同体の指導者たり得るとする「正統イマーム」という嘘をでっちあげ、アッラーからの怒りを買おうとしている。
預言者ムハンマドの導きと慣行(スンナ)に沿ったスンナ派の学者(ウラマー)は、このような誤った導きの分派や(シーア派のような)異端の危険性を指摘しており、それらの分派に反対し、正統な経典と正しい論理で、彼らが捏造したことを否定している。
その事は、栄光なるアッラーと預言者ムハンマド、そして、高貴なる教友たちが容認する方法あり、それを続けて行くのがスンナ派の権利でもある。
õ õ õ
宗教は国々や人々の間で殺し合いが起こる要因なのか?
それは経済の停滞と文化の退廃の原因であるのか?
これらの問題に答える前に、全能なるアッラーを恐れる(服従する)国々や人々と、無宗教の国々や人々について、説明していきたい。
例えば、全能のアッラーから遠ざかっている人、つまり、創造者である神の存在を信じない無宗教の人々は、国家間の争いや個人の間の争いで殺人がはびこっているのは、宗教のせいだ、と感じているかもしれない。経済の停滞や文化の退廃も同じ理由からだと感じるだろう。しかしながら、その神の存在を否定する無神論者たちの見解は間違っている。それは知識の欠乏と現実からの逃避である。単に小さな欲望とありふれた情熱が原因かもしれないし、また、それらの実際の要因について知っているにもかかわらず、自分の意思と欲望に矛盾する真実を拒絶しているだけかもしれない。
そのような人々は、まず、第一に全能なるアッラーの存在を信じ、アッラーの存在を否定すべきではない。
つぎに、全能なるアッラーの真の宗教、イスラームについて知らなければならない。例えば、神の法は、様々な法学の規律を含んでいるが、これは、英知なるアッラーの力により時を超え、場を越えて、変化する人々や国々のために役立って来た。
真実は、一つであり、相い似せる事は出来ないし、偽りも一切ない。
全能なるアッラーを信じ、真実に従う国や人々の状態:
先に述べたように、自然な状況とは、人々がイスラームという同じ宗教を信じているという事である。つまり、全能なるアッラーだけを、その偉大さと絶対性だけを信じ、何か不都合があったり不十分であったりしても、その原因をアッラーに帰さず、そして、間違いに陥ったり、迷ってしまった際には、教訓をたれ、正しい道へと導いてくれる全能なるアッラーの凡ての使徒と預言者を信じている事である。
もし、使徒や預言者たちの呼びかけやメッセージがはっきりと証明され、立証されたのなら、だれもがそれらを否定しないであろう。また、全能なるアッラーから遣わされた最後の預言者に従うことに何の驚きもないであろう。そして、すべての聖なる書が使徒や預言者を通して、全能なるアッラーから下ったものであると信じている事である。
全能なるアッラーに帰依する国および人々は、神の法で裁かれ、使徒や預言者の生き方に従っていると信じている。しかしながら、人々は自分の欲望と利益によって分裂したのである。
「本当にあなたがたのこのウンマは、唯一の共同体である。われは、あなた方の主である。われを畏れよ。それなのに彼らは、諸宗派に分裂した。しかも各派は自分たちが素晴らしいと言っている。」[信者たち章:52,53節)
上記のクルアーンの言葉で、「あなだがたのこのウンマ」とは、預言者ムハンマドのつくったイスラーム共同体のことである。
そして、 「諸宗派に分裂した」この意味は、先ほども述べたように、同じ宗教から、いくつかのグループもしくは、分派に分かれた事である。
当然、アッラーの為に諸宗派は統一されるべきで、互いに対立すべきではない。互いに愛しあい、争いをせず、平和の中で生存しなければならない。イスラーム共同体は、全能なるアッラーの賢明なる規律と法学を実践しなければならない。そこには全能なるアッラーの高尚な教えと、行動を高貴で教養のあるものにする基準が記されているからである。
全能なるアッラーが命じた事を受け入れれば、結果として国家や人々は経済的にも成長できる。
歴史を振り返り、預言者ムハンマドが現れる以前のアラブ人とその他の民族、そして、イスラームが到来してからの彼らの状況を比べてみよう。(預言者ムハンマドが現れた後、唯一の神であるアッラーの権威と力に帰依したのであるが。)
預言者ムハンマドの到来以前、アラブ人と他の民族は、色々な部族に分かれ、抗争を繰り返していた。争いの理由は些細なことで、互いに憎しみあっていた。
しかし、預言者ムハンマドの到来によって、イスラームは宗教として確立され、アッラーの導きの元、彼らはイスラームに改宗し、部族も統一された。
「そしてあなた方に対するアッラーの恩恵を心に銘じなさい。始めあなたがたが(互いに)敵であった時、かれはあなたがたの心を(愛情で)結びつけ、その恵みによりあなたがたは、*兄弟となったのである。」(イムラーン章:103節)
*イスラームではムスリムは兄弟(同胞)愛で結びつけられていると言われている。
無宗教の国と人々の状態は、次のようである:
不公平と堕落が広まったのは、彼らが自分の欲望と利益とに従ったからである。そして、“強いものが生き残る” という逸脱した常識のため、不条理な殺戮が横行した。尊い価値観、つまり誠実性・信頼性・正義感などは人間の社会が存在するのに必要であるし、それがなければ存在できない。そうした価値観が消え去った時、先ほど述べたような状態になる。
邪悪な信念や行動に審判を下す創造者(神)を信じていない人々の間では、姦通や非難されるべき行動などの道徳の欠如が広まるのである。
このように、国や人々の間で安全や平和が築かれていなければ経済の発達はない。そして、生活の凡ての面で、経済の停滞と文化と社会の停滞がみられる。
一つの例を出すならば:人種と文化の違いが原因で、多くの国々で多くの戦争が行われてきた。共産主義の国、旧ソ連や中国などでは、神の存在を否定してきた。また、これらの国々は、人々の自由と尊厳を弾圧、強制、侵略してきた。実際、それらの政府の指導者たちは、もっとも恐ろしい方法で人々を拷問し、何万もの人々を殺し、そして、戦争を起こし、何万人もの人々が死んでいった。
第一次、第二次世界大戦で、また国と国との紛争で、何千人もの人が殺され、結果として大きな戦争は大災害と経済の停滞、文明の後退をもたらした。
以上のことから、私は最初の質問に、はっきりと答えることができる。宗教は経済の停滞や文化の退行をもたらすのではなく、むしろ経済の繁栄と文明の進歩をもたらしているのである。
言うまでもなく、かつてのムスリムの戦争は、真実を宣言する為だけではなく、絶対唯一のアッラーからのメッセージを広める為のものであり、大混乱や殺害がもたらされない事もあった。
アッラーの使徒は、女性や子供、年寄り、非戦闘員である僧侶の殺害を禁止した。そして、死体を燃やしたり傷つけたり切断したりする事を禁止し、アッラーの使徒から与えられた教えに照らして、戦争におけるムスリムの行動を制約した。
人類へのアッラーの恩恵とイスラームにおける人類の義務
我々人類の義務は、アッラーが我々に与え給うた恩恵について知ることである。我々がこの大地で生きる目的は神を信仰するためで、神を信じる者たちは神から多大な恩恵に浴すことができるのである。
元来、人間はアッラーに対して恵みを与えることは出来ないが、アッラーは寛大にして偉大であるため、人間に身に余るほどの恩恵を給うのである。
神のために人間がせねばならぬこと
1.一神のみを信仰すること。
人は全ての事物と人間を創造した偉大な神、アッラーのみを崇拝しなくてはならない。
アッラーは完璧な創造主であり、生命を吹き込み、全てを形作った。恵み深く、神の九十九の美名のとおりであると認めなければならない。
アッラーは全能で、アッラーだけが出来ることがある、と認めなければならない。
(以上、「一神信仰」と定義される)
創造主アッラーは完全な存在である。
アッラーはその性質を形容した善性の神名そのものである、と認めなければならない。
アッラーは悪い形容を決して持ち得ない。
人はアッラーのみを信じ、アッラーの他のものを崇拝しないこと。
2.信仰と従順
一神だけを崇めるべきで、アッラー以外のものを崇拝したり帰依したりすることは許されない。
アッラーの命令への服従。
神の命に従うこと。即ち神の使徒や預言者が告げたように、禁忌から遠ざかること。
それはアッラーの慈悲と満足を得るため、アッラーの怒りを避けるためである。
人類への神の恩恵
前述通り、人はアッラーに恵むことはなく、アッラーを信仰するのみであるが、アッラーは信仰するものに寛大に恩恵を与える。アッラーは一神教を守る者、正しい行いをする者、従順である者に楽園である天国を用意している。その天国とは、これまで見たことも聞いたことも想像してみたこともないような素晴らしいものであるという。天国では永遠の生と若さが約束されているが、人は、神が再び創造し給うた体を手に入れるからである。生前、正しい行いをした男の信徒たちには、美しい天女の妻たちが与えられる。女性の信徒は現世でそうだったよりももっと美しく生まれ変わる。人は概して現世でのように排泄はせず、美味しく食べたものが出てくるのは、ムスク(香料の一つ)よりも良い匂いの汗として出てくるだけで、天国は清く、汚れることがない。
アッラーは、現世で良い行いをしたものに金・銀でつくられた豪華な御殿を用意している。その御殿は、鋼玉石(コランダム)や真珠などの種々の宝石で飾られている。しかし、何にもまして偉大である恩恵は、比類なきアッラーに直接会いまみえることができることである。このような素晴らしい恩寵には終わりがなく、至高の主アッラーは信仰者たちに満足され、怒ることはない。
至高の主アッラーはこう仰った。
「これはアッラーからの恩恵である。アッラーは凡てのことにぬかりなく通暁しておられる。」【第4章婦人章70節】
õ õ õ
結び
この本において、私は、宇宙の創造者、万有の主である神の存在について、証明してきた。アッラーは唯一無二、完全無欠であり、絶大なる力と完全なる知識と賢明さを持ち合わせておられる。
― 我々は、(偉力ならびく限りなく尊い)アッラーの栄光について知らなければならないし、その反面、ユダヤ教徒やキリスト教徒の間で、アッラーの間違った考えが広まってしまったことについても知らなければならない。
― 預言者ムハンマドの宗教であるイスラームを除いては、誰もがアッラーについて知らない。
― 旧、新約聖書で予告されたように、ムハンマドの宗教にしか、導きがないのは、明らかである。
― イスラームは、アッラーの宗教であり、ムハンマドの後に、使徒も預言者もいない。
― 万有の主アッラーが最後の預言者である印に、ムハンマドに聖なるクルアーンを下した。それがイスラームである。
― ムハンマドのメッセージを信じ、ムハンマドや教友たちがおこなっていた習慣(たとえば、断食など)を取り入れる。
― 救いとして、預言者ムハンマドを助け、リーダーとした教友たちと異なる方法を避け、預言者ムハンマドの導きに従い、預言者ムハンマドの指示を変えたり、教友やそれに従った人々に反する革新的分派を避ける。
―(偉力並びなき限りなく尊い)アッラーの宗教、つまりイスラームを強く保持しなければならないのは、明らかな事であり、高尚な指示と律法は、様々な社会や世界の色々な場面で、経済の繁栄や貿易の流動を改善し、文明を進歩させる。そして、イスラームこそがこの世界と来世で成功するものとなる。
そのため、我々は、絶大なるアッラー(われらの創造者、万有の主)に、自分たちの義務を果たさなければならない。そして、上記で説明したように、預言者ムハンマドは、至高のアッラーの使徒であるのは確かなことであり、聖なるクルアーンは、アッラーから下された啓典である。千四百年に下されたクルアーンは、その目的の高尚さ、科学的記述の正確さは、まさしく、それが万有の主であるアッラーからの言葉であることを明確にするものである。
預言者ムハンマドの身体、心、魂、姿かたちは、任務を果たすべく、神から与えられたものである。全能なるアッラーは、預言者ムハンマドが、そのメッセージの善、美徳、光、正しい導き、真実を伝える手助けをしたわけである。
そして、そのメッセージは、全世界の為、現世と来世、そして、最後の審判の日のためのものなのである。
「このクルアーンが私に啓示されたのは、わたしがあなた方にそして届く限りの者に、それによって警告するためである。」(家畜章:19)
õ õ õ
最後に
全能なるアッラーの存在と、唯一性、そして、数え切れないほどの祝福と最初の導きを確認した今、(高貴であり、至高である)アッラーが我々に一神教というイスラームの祝福を与えてくれたことを認知しなければならない。
1、アッラーの愛
(至高で高貴なる)アッラーは、心が崇拝し、愛情を感じ、また(心が)切望する神である。それはなぜか?
アッラーは、我々が存在しなかった時に、我々を創造した。我々には、何もなかったのだがアッラーが我々に心と魂と体を与えた。そして、数え切れないほどの祝福を与えてくれたのである。
アッラーは、我々に正しい導きと慈悲を与えてくれる唯一なる方で、アッラーを信じ、神が唯一である事を信じ、預言者ムハンマドが最後の預言者である事を信じるように導いてくれているのである。そして、アッラーこそが人類の中でもっとも優れた人である預言者、神の使徒ムハンマドを我々に与えてくれただけではなく、彼がアッラーを愛し、預言者と使徒を愛し、ムハンマドに従った教友たちを愛すように導いてくれているのである。
アッラーは、その偉大で美しい性質を自ら描写し、最も美しい名で呼ばれている。(*至高で高貴なるアッラーは、九十九の美名を持っている。その一部を紹介すると、慈悲あまねく、王、聖なる、平安、信仰を管理する、守護する、偉力並びなく、制圧する、限りなく尊い、創造者、造化の主、形態を授ける、許す、与える者、など。これらの美名は、アッラーを称える言葉でもある)
従って我々は、最も高貴なるアッラーを愛し、信仰し、美化し、教えを広めなければならないのである。アッラーだけを信仰し、アッラーに満足してもらえるよう勤めなければならない。そして、アッラーを畏れ、悪事に手を染めないようにしなければならない。
それと同時にアッラーの使徒であり、預言者であるムハンマドを愛さなければならない。
というのも、
A 預言者ムハンマドは、全能なるアッラーに最も愛された人であり、創造者アッラーを信仰するのに、預言者ムハンマドに倣うのが良いとされているからである。
B 限りなく尊いアッラーは、人々を導く為に、預言者ムハンマドを造られた。そして、預言者は、信仰者に真実に導かれるように、そして、不信心者や偶像崇拝者などにも、正しい信仰の光があたるように導かれているからである。
C 預言者ムハンマドは、人と交流するのがとても好きだったという。長く会っていない人がいると、預言者は、とても寂しく思っただけではなく、アッラーを恐れない人々のことを危惧した。全能なるアッラーの慈善と、許容の正しい信仰の道から決してそれる事はなく、全能なるアッラーの慈善と許容から遠ざけようとする悪魔(シャイターン)の道に、決して、逸れる事はなく、我々にも(シャイターンの道に入る事を)禁じ、それから遠ざけるようにした。そして、信仰を拒否した人々を最後の審判の日に救い、弁護するために、彼らにアッラーの怒りを何度も呼びかけたのである。
2、(栄光で至高なる)アッラーをたたえる
我々は、心の中でアッラーをたたえ、禁じられたものはさけ、信仰の儀式を尊重しなければならない。そして、それは、公けの場においても同じ事である。アッラー(栄光で至高なる)に従い、使徒や預言者、教友たちにつづき、禁止された事(ハラーム)は避けなければならない。
「アッラーの儀式を尊重する態度は、本当に心の敬虔さから出てくるもの。」(巡礼章:32)
3、アッラーを擁護し、イスラームの為に戦う
全能なるアッラーは仰せられた。
「信仰するものよ。あなたがたがアッラーに助力すれば、かれはあなた方を助けられ、その足場を堅固になされる。」(ムハンマド章:7)
アッラーは、私たちにアッラー)を信じ、その唯一性を信じ、預言者や使徒を信じるように導いてくださった。したがって、我々は次のようにアッラーを護らなければならない。
Aアッラーの啓典(聖なるクルアーン)に拠って物事を判断し、律法を守り、預言者に追従しなければならない。
B教友たちに従い、禁止された事(ハラーム)をさける。
Cアッラーの定めた規律を守り、誓約を尊重する。
Dイスラームのために、真の信仰者として、イスラームの敵と戦う。それは、地理的に区切られた国々の一員としてではなく、イスラームの信者としてである。
アラブ系信徒(ムスリム)と非アラブ系信徒の差はない。イスラームにおいて信者は平等である。
Eムスリム同士の争いを調停し、アドバイスする。
「信者たちは、兄弟である。だからあなた方は、兄弟の間の融和を図り、アッラーを恐れなさい。」(部屋章:10節)
アッラーのために戦うこととは、次のような事である。
a.我々の出来る限り可能な方法で、イスラーム教を人々に紹介する。
i アラビア語だけでなく、色々な言語で書かれたダーワ(布教)や、シャリーア(イスラームの法学)、シーア「*ムハンマド様(彼にアッラーの祝福と平安あれ)の伝記」やスンナの本を印刷し、東洋研究所や公共の図書館、大学の図書館に配布する。
ii 色々な言語、特に英語で、イスラームの布教の専用インターネットのウエブサイトを始める。
iii 色々な言語、特に英語で、イスラームを布教し、紹介するサテライト チャンネルやメディア、ラジオ、雑誌などを始める。
b.我々は、有益な知識を我々の標語として掲げなければならない。
我々は、イスラームの範疇で個人の宗教に関する知識を広め、そのレベルをあげていく必要がある。それは、クルアーンについて、解説(タファシール)、哲学(フィクフ)、伝記(シラーラ)、歴史(タリーフ)について勉強することである。
我々は、ヨーロッパのメディアの挑発的な言いがかりを論破しなければならない。
我々は、インターネット上にイスラームを装って作られた模造のウエブサイトに抵抗しなければならない。そして、ムスリム間でも、それについての知識を持たなければならない。
c.我々は、預言者ムハンマドと教友たちが歩んできた行動様式に従って生きなければならない。謝った教えの分派や勝手に作り出したスーフィなどの派などは、避けるべきである。
d.我々は、長年にわたって信用されてきた学者たちを尊敬し、彼らの名声の偉大さを知り、守らなければならない。
e.我々は、偉大な宗教であるイスラームを、人生の美徳と富、努力でもって守らなければならない。
f.我々は、(高貴で、至高なる)アッラーを、昼、夜たたえ、私たちに与えてくださった祝福に感謝し、最後の預言者であるムハンマドを遣わした最高の宗教はイスラーム以外になく、一神教と真の信仰者を創造してくださった事に感謝しなければならない。
(偉力並びなき、限りなく尊い)アッラーよ、我々に祝福と、最後の使徒であるムハンマド(彼にアッラーの祝福と平安あれ)を送ってくださった事を感謝します。どうか預言者ムハンマドに天国での高い位置と彼に約束された栄光の場所を与えてください。アッラーよ、どうか彼の家族に、最後の審判までスンナに従いその道を歩んできた教友たちに、平安と祝福を与えたまえ。
万有の主、アッラーに賞賛あれ
õ õ õ
<br />
([1])フィトラとはイスラーム関連用語であり、「本能」に近いニュアンスをもつ。神が人間を創造する際、物事の良し悪しを判断できる性質を付けたという意味をする。
([2])アッラーはアラビア語で「神」を意味する。
([3])フィトラとはイスラーム関連用語であり、「本能」に近いニュアンスをもつ。神が人間を創造する際、物事の良し悪しを判断できる性質を付けたという意味をする。
([4])ハディースとは預言者ムハンマドの言動(言葉や行動)を伝えたものである。
([5])マーリク法学派はスンナ派におけるイスラーム法学の学派(マズハブ)の一つ。4大法学派のうちで二番目に大きく、ムスリム全体のおよそ25%がこの法学派に属し、北アフリカ、西アフリカ、アラブ首長国連邦、クウェート、サウジアラビアの一部で有力である。かつてはイスラーム支配下のヨーロッパ、特に北アフリカ(マグリブ)一帯からアンダルスの主な政権で有力な法学派として発展し、シチリア首長国(831年 - 1072年)でも有力であった。
([6])イスラーム教スンニー派の四大法学派の一つ、ハンバリー学派の創始者。バグダードでイスラム諸学を学ぶ。彼の法学は、コーランおよび預言者ムハンマドの言行を伝えるスンナ(範例)に字義どおりに従うことを強調する。アッバース朝のカリフ、マアムーンが合理主義的なムゥタジラ派神学を公認教義と定め、他の教説を異端として弾圧した際にも、ムゥタジラ派の主張するコーラン被造説を、伝統主義の立場からあくまで承認せずに獄に下った。[鎌田 繁]
([7])http://www.way-to-allah.com/jp/miracles/new/TheTailboneMiracle.html を参考。
([8])ザグルール・アル・ナッガールは1933年生まれのエジプト出身の地質学者で、聖クルアーンの奇跡を解説するということで知られている。現在エジプトで聖クルアーン科学概念コミッティーの委員長で、その他にエジプトのイスラーム高等評議会の委員をつめている。
([9]) ジェームス・バークは1936年にロンドンデリーで生まれた。科学史家、作成者、よく知られているテレビプロデューサーである。
([10])史上もっとも有名なニカイアは、小アジアのビテュニアのヘレニズム都市である。ビテュニアのニカイアは、現在のトルコの都市、イズニクにあたり、初期キリスト教の教義確立に大きな影響を与えた、二つの公会議(325年および785年)の開催地、東ローマ帝国の亡命政権ニカイア帝国の首都として知られる。ヘレニズム世界の各地に同名の町が複数あり、フランスのニースの古名もニカイア(ニカエア)である
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